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飛び降りの心境

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「一人ではできるが、集団になると急にできなくなる」
 というのは、
「緊張からくるものなのか?」
「まわりを意識することから来るものなのか?」
 などと、いろいろ考えられたりするものだろう。
 あさみの場合は、まわりを意識するからだろうと自分で思っていた。
 正直緊張というものは、ほとんどなかった。どちらかというと、
「一人でいると、集中して、自分の世界に入ることができるのに、まわりの気配を感じることで、集中できなくなり、想像が、別の方向にいってしまうのを嫌っている」
 と言えるのではないだろうか?
 だから、中学の時の部活を意識したことがあったくらいで、それ以降、サークルに入ろうと思わなかった。
 だから、ポエムも完全に遊びだった。
 ただ、
何でもいいから、自分オリジナルの作品というものを作ることができれば、それでいいんだ」
 と思っていたのだ。
 大学生になると、一時期、
「小説を書きたい」
 と思った時期があった。
 小説ともなると、ポエムよりも、数倍難しいという意識が潜在的にあり、思い込みもあることから、
「自分にできないことなのだから、相当、高尚なものなんだろうな」
 と思っていた。
 実際に小説を書こうと思っていろいろ、
「手を変え、品を変え」
 やってみたが、まったくできるものではなかった。
 本当の最初は、
「明治の文豪」
 のごとく、机に座って、原稿用紙を広げ、万年室で書こうと思って、かしこまってみたが、緊張だけで、何も出てこない。
 それこそ、用紙を丸めて、後ろに残骸が広がっているというような光景を地で行っているかのようだ。
 しかし、実際には、緊張で汗が出てくるのだった。
 ポエムの時には一切なかった緊張だった。
「なんで、こんな緊張の仕方をするんだろう?」
 と自分に言い聞かせてみたが、どうもおかしな気がするのだった。
「これではダメだ」
 と思い、まず考えたのは、
「場所が悪いんだ」
 と思った。
 家にいると、ついついテレビのリモコンを手に持ったり、ケイタイをいじってみたりするのではないか?
 中学時代のケイタイというと、まだまだ、今のスマホの足元にも及ばないほどの機能しかないが、それでも、ケイタイは、それなりの気分転換には十分だった。
 だから、
「図書館でやろう」
 と思い、図書館の自習室にいったのだ。
 しかし、自習室というと、皆が勉強していて、声を出すことは厳禁という、
「集中するにはちょうどいい場所」
 と言えるのだろうが、逆に、集中できなければ、これほど居づらい場所はないといえるのではないだろうか。
 それを思うと、
「図書館もダメか?」
 ということになる。
 そして、思いついたのが、カフェだった。
 適度にざわつきもある。会話も聞こえてくるので、
「せわしない」
 というのは、しょうがないが、
「緊張しない」
 という意味で、ちょうどいいのが、カフェでのひと時だった。
 さらに、
「原稿用紙というのが鬼門なのかも知れない」
 と思い。横書きのルーズリーフに、鉛筆にした。
「万年筆というのも、鬼門だ」
 と感じた。
 まず言えるのは、
「書き直すことができない」
 さらには、
「滲んでしまうと、わけがわからなくなる」
 ということであった。
「二つが変わると、その影響は大きいかも知れない」
 と感じた。
「一足す一は二」
 と言われるが、この場合は、
「一足す一が、三にも四にもなる」
 ということであり、それを、
「相乗効果というのだ」
 ということであろう。
 それを考えると、
「場所も筆記具も変えることで、一気に書けるようになるかも知れない」
 と思った。
 実際にやってみると、結構うまくいったのだ。
 喫茶店にしたことでのメリットというと、確かに、人の動きが気になって、集中できないという点では、図書館と変わりがないかも知れない。
 しかし、喫茶店での人の動きというのは、意識しての動きではなく、無意識の動きだったのだ。
 それにより、
「小説を書くということよりも、まずは、目の前で繰り広げられていることを、写生するのだ」
 ということを意識すれば、書けるのではないかと思ったのだ。
 冷静に、客観的に見ていると、想像が膨らんでくる。
「この人はいくつなのか?」
 ということから、
「なぜここにいるのか?」
 などということまで、それ以外にも、情景を写生することだってある。時間が何時頃で、歩いている人は男女どっちが多いのか? それによって、時間帯との矛盾がないことなどを書き連ねれば、かなりの字数は稼げるはずである。
 そんなことを考えていると、
「小説というのは、いくらでも思いつくのではないか?」
 と考えられるというものだ。
 そして、最後に辿り着いたのが、
「喋れるんだから書けるだろう」
 ということだった。
 そう思うと、一気に気持ちは楽になり、いくらでも、言葉の引き出したが出てくる気がしたのだった。
 ただ、書いているだけだと、自分が書いていることを、後から読み直さないとピンと来なかったりする。いわゆる、
「推敲」
 というものになるのだが、基本的に推敲は、
「書いてからすぐにやるものではない」
 と思っているのだ。
 というのも、
「書いている時というのは、思い込みに走っているため、書いていて、自分で納得できないものを書いている気がしてくる」
 ということになるのだ。
 だから、時間を置いて、冷静になって、客観的に見ることで、その内容が分かってくるというものであった。
 ただ、推敲という形で時間をかけてしまうと、今度は、
「その時でしか感じない情景だったはずだ」
 ということで、思い出そうとしても思い出せなかったりする。
 それだけ、集中して書いているのだし、
「自分の世界に入り込んでいる」
 と言えるのではないだろうか?
 そのことを考えると、
「小説を書くということは、時間と微妙な関係にあるということを認識しておかなければいけない」
 ということになるであろう。
 そして、小説を書いていて、次に思うことは、
「何があっても、最後まで書ききることだ」
 ということである。
 小説を書く上で、一番最初に引っかかるのは、
「最後まで書き切ることができない」
 ということである。
「自分が考えている執筆と違う形で書いているのではないか?」
 と途中で考え始めると、疑心暗鬼しか生まれてこない。
 疑心暗鬼に走ってしまうと、せっかく書けるようになったと思っても、その自信を完全なものにできないというジレンマに陥るのだ。
 その原因は、
「最後まで書き切ることができない」
 ということで、これは、少年時代など、プラモデルなどを最後まで完成させることができなかった男の子とは少し違うような気がする。
 プラモデルは、自分の思い通りにできないことから、イライラして辞めてしまうのだろうが、小説の場合には、
「時間がかかって作ったとしても、時間のわりに、納得のいくものができなかった」
 という思いから、
作品名:飛び降りの心境 作家名:森本晃次