自転車事故と劇場型犯罪
彼の顔が目の前にあるというのは、自分でも意識していたわけではなく、まるで、出会い頭のようだった。
だからこそ、気持ちが昂り、目の前に顔があることで、最高のエクスタシーを感じているように思うのだった。
「彼とは、相思相愛だったんだ」
と、佐和子はすぐに感じた。
しかし、彼は、もっと冷静な目で見ていたようで、相思相愛だったのではないかということを彼にいうと、
「そうだね」
とは口でいうのだったが、その奥に何か、違和感があるのを佐和子は見逃さなかった。
「相思相愛というよりも、どちらかの意識が強かったことで、それが相乗効果になったと言った方がいいような気がするんだ」
と彼は言った。
佐和子は、彼のその言葉に急に冷たさを感じたが、それは一瞬だった。
むしろ、
「同じようなことを考えていたということなのかしら?」
と感じると、まさにそこに、二人の間の絆のようなものが、次第に、恋愛感情に結びついたという、ある意味、当たり前のことであるにも関わらず、当たり前のことだけに、それを貫くことが、本当は難しいのではないかと感じるようになったのだ。
佐和子が、男の子と一緒にいることで、何が楽しいのかということを、恋愛感情に結び付けたのを、理屈で考えようとした自分が、余計に、
「肉体から、精神に移っていくのが性欲というものだ」
という基本的な考えに行き着いたように思えたのだ。
内部留保
高校2年生の頃から、その彼とは付き合うようになった。
だが男女の仲として付き合っていたのは、どれくらいだっただろうか?
「数か月くらいだったのかな?」
という曖昧な気持ちになったのは、実は、
「恋愛感情の垢にいる」
と思ったのが、最初の一か月くらいだったのを意識していたからだった。
「あっ、何かおかしい」
と感じたのが、告白から付き合い始めてから、一か月ちょいくらいだっただろうか、違和感があったのだ。
その違和感を抱きながらも、付き合っている時期は続いた。
しかし、それまでは会えなくても寂しくはなかった。
「付き合っているんだから、いつだって会える」
という思いがあったからなのだが、違和感を感じてから少しして、
「会えないのが、こんなにもどかしいとは」
と、また悶々とした気分になっていたのだが、実際に考えてみると、
「会えないということが、どういうことなのか、わからなくなったんだ」
と感じた。
そうなると、今度は、
「会うのが怖い」
と思い始めた。
自分の中の心境に変化が表れてきたということなのだろうが、
「会ったら何を話していいのか分からない」
と思うと、会うのが怖いという感覚に結びついてきたのだった。
変化というものが、自分にとって、どういうことなのかを考えてみると、それが、
「本当にあの人のことを好きだったのだろうか?」
と感じることだった。
性欲が強いはずなのに、彼と遭っている時、
「抱かれたい」
という気持ちにならないのだ。
まるで、中学生のデートのようなものに満足し、
「何が楽しいというのだろう?」
という思いを抱き、
「抱かれる」
ということをどのように意識すればいいのかと思うと、
「目の前にいる人だからこそ、感じることができない」
と思うのだ。
それは恥ずかしいということではないものだったが、それが、中学時代からの知り合いだったということが影響していると思った。
「中学の頃から付き合っていたかった」
という思いを、今、後悔の念が襲っていて、
「中学時代からやり直したい」
という思いが、強くなり、
「それが性欲を抑えていたのかも知れない」
と感じたのだ。
中学時代の自分が、まだウブだったのだということを思わせるようで、それだけ、高校生になった時、大きな変化が自分にあったということだろう。
中学生になった時は、明らかに思春期への突入だったが、高校生になった時、それは、
「思春期から抜けた時期だったということなのでは?」
と感じたのだが、それは逆に、
「思春期だからといって、性欲の強さとは、直接関係のないことなのかも知れない」
つまりは、
「思春期を抜けてからの方が、性欲は強まり、実際の肉体的な欲求が強まってきたのではないか?」
と感じたのだった。
高校生になって、彼とつき合い出したはよかったが、急に冷めてしまったように思うのは、
「それだけ、肉体的なことが、自分を襲ったから、彼では満足できないということを本能的に感じたのではないだろうか?」
ということを感じたが、どうも、都合のいい解釈に思えて仕方がなかった。
それだけ、別に何か思うことがあったに違いないと感じるのだった。
高校生になって男子と初めてつき合ってみたが、その興奮は、思ったよりもなかった。
「中学生からやり直そう」
と、彼が思っていたと感じたから、佐和子は次第に彼から気持ちが離れていった。
しかし、後から思うと、やり直したいと思っていたのは、彼よりもむしろ自分の方ではないかと感じるようになると、自分で驚愕したのだ。
実際に、それが本当だとすると、
「彼はどうして、こんなにアッサリと私から身を引いたのかしら?」
と感じたが、
「それはきっと、私に対して、最初の気持ちが間違いだったことに気づいたからなのかも知れない」
と感じたが、さらに考えると、
「最初から、私のことを好きでもなんでもないのかもしれない」
と思った。
だから、彼がいったではないか。
「君の視線に気が付いた」
とである。
佐和子の視線に気づいたことで、彼は、
「好かれたから好きになろうとしただけのことだ」
と言えるだろう。
だから、好きになれなくても、それは当然のことであろう。
確かに、好かれたから好きになって、愛し合うようになるカップルも多いだろう。
しかし、それは、好きになろうとして好きになったわけではなく、最初から好きだった気持ちを自分の中で今一度奮い立たせただけのことではないだろうか?
それを思うと、佐和子のことを、彼は好きではなかったというだけのことだと思えば、この別れは必然だったといってもいいだろう。
なぜなら、佐和子だって、彼のことを好きだったのかどうか、別れてしまってから考えても、その答えは見つかることはないのだった。
「私が相手を好きになる」
ということは、普通にあると思っていたが、それは、段階がいるもので、
「好きになるという土台がしっかりしていることが前提だ」
ということであったのだ。
だから、彼に対して、
「好きになる前提がなかった」
ということであり、人を好きになるという感情は、
「年齢によるものではないか?」
と考えるようになった。
「人間というのは、いかに生きるかということは、最初から遺伝子のようなものの働きで、ある程度までは、決まっていて、その遺伝子が本能と呼ばれるようになると、次第に、意識を持つようになり、本能と意識で、生きていくということになるのだろう」
と考えるようになったのだ。
だから、
「デジャブというものがある」
と考えることができるのではないだろうか?
つまり、
作品名:自転車事故と劇場型犯罪 作家名:森本晃次