自転車事故と劇場型犯罪
「デジャブというものが、見たり行ったりしたことがないにも関わらず、以前どこかで見た、あるいは、どこかで聞いたというものを感じる」
ということになるのだろう。
デジャブが、説明のつかないことであり、その解釈として、
「前世で見た」
というのも理由としてあった。
昔は、
「信憑性のない笑い事」
のように感じていたが、遺伝子や本能というものが最初から決まっていると考えると、シナリオの青写真が透けて見えることで、
「それが、デジャブだ」
ということになるのであれば、信憑性はあるといえるのではないだろうか?
佐和子は、もう30歳になっていた。大学を卒業し、普通に就職したのだが、別に大学時代も一生懸命に勉強したというわけでもなく、
「可もなく不可もなく」
という成績で卒業し、入った会社でも、事務職に毛が生えたような仕事を、適当にこなしていた。
まわりの女性は、もっとやる気があるので、中にはすでに、何度もプロジェクトに参加し、エリートコースを歩んでいる人もいれば、結構早いうちに辞めた人もいた。
結婚するという人はまわりで聞くこともなく、誰も、
「結婚したいとは思わないな」
という人が多かったのだ。
だから、そんな仲間が集まったといってもいいだろう。
仕事というのが実に楽しいというわけではなく、他に何か趣味を持っているわけではない。
趣味をする中で、何を楽しむかということを考えると、
「兄が一体楽しいというのか?」
と、まったく浮かんでこないのだ。
イメージが浮かばないものを、無理にすることはないと思っているので、実際に何もする気にならない。
かといって、酒を呑むとか、友達を作るとかいうこともない。
彼氏というのも、実際にはいたことがない。
「付き合ってくれませんか?」
と告白してくる人は、大学時代には数名いたが、
「私は、誰ともお付き合いをする気がない」
というと、
「ああ、そうですか」
と言わんばかりにショックを受けるわけでもなく、最初から分かっていたかのように思われるだけで、何も楽しいとは思わない。
その日も、会社が終わってから、家までのいつもの道を歩いていたのだが、会社から駅までのいつもの道は、
「歩道は広いのだが、それだけに、自転車が我が者顔で走っているのが、鬱陶しい」
ということをいつものように考えていたのだった。
駅までの道を歩いていて、その先にあるものを考えたこともない。普通、毎日同じ道を歩いていたりすると、同じルーティンを過ごしていることで、
「何かを考えていないと、身が持たない」
というような気持ちになり、気が付けば、
「絶えず何かを考えていた」
と思うのは、昔の方が余計にあった。
むしろ、
「何かを考えない方が難しい」
と思っていたのに、最近は、自分で何を考えているのか、まったく分かっていないのだった。
しかし、最近は、
「まったく何も考えていない」
と思えることが多い。
きっと、何かを考えていて、我に返ると忘れてしまうからではないかと思うのだが、それは今に始まったことではないはずなのに、思い出した時、残っているのは、後悔の念だけであった。
それは、思い出せなかったことへの後悔であり、その後悔は、本当は感じる必要のないものだった。
思い出したことで、何かが始まるというわけではない。だが、思い出さないと、気持ち悪くて、苛立ちが募るのだ。
その日も、会社で何か、苛立つことがあったのだが、
「私は一体、何に苛立っているんだろう?」
というほど、考えていることが、ハッキリとしないのだった。
そんな時は、何かを考えているのだが、時間だけが先に進んでしまったようで、
「気が付けば、同じ場所にいて、時計が5分進んでいる」
などということが結構あったりするのだ。
かと思えば、
「時間が経っていないのに、数十メートル先にいた」
と感じる時があり、その時、なぜか背後に視線を感じ、後ろを振り向くのだが、誰もいないのだった。
そんなことを時々思っているのだが、その日も類に漏れず、同じ感覚だったのだ。
夕方の帰宅途中にそんなことを感じる時というのは、えてして、朝から頭痛がする日が多かった。
昼仕事をしていると、次第に痛みが緩和してきて、夕方くらいには、痛みが消えているのだが、そのおかげか、痛みが消えると、結構スッキリしてきて、そのかわり、まるで薬でも効いているかのように、ボーっとなることが多い。
だから、このような意識が曖昧な状態に陥るのではないだろうか。
それを感じながら、会社から駅まで歩いていた。
「今日はいつもよりも人が多いな」
と思ったのだが、よく考えてみると、金曜日だった。
金曜日の夕方というと、人通りが多いのは当たり前のはずだったのだ。
だが、よく考えてみると、
「金曜日がお得とかいっていた時期があったが、あれはどうなったのだろうか?」
と思った。
金曜日の仕事を半ドンにして、昼から自由にすることで、飲み屋であったり、食事処などが、金曜日は、昼から賑わうというものだった。
確か、4、5年前くらいにそんなものがあった気がしたが、当時とすれば、結構商店街などの活性化に一役買いそうなイメージだったのだ。
映画館などと一緒の駅直結型の、商業施設などであれば、
「映画の半券で、ビール割引」
であったり、
「串カツ一本サービス」
などという企画があったが、金曜日の昼からであれば、同じようなサービスをしているところも少なくなかった。
だから、金曜日は、自家用車で通勤している人も、電車で来たり、飲んでから、
「運転代行」
を雇うという人も多かったのだ。
だが、最近では、それも言わなくなった。
一番の理由は、
「世界的なパンデミック」
の流行からであろう。
これが、ちょうど3年くらい前からだったので、せっかくの金曜日の企画だったが、
「行動制限」
を敷かれるほどになったので、繁華街で飲み歩くという、金曜日の企画は、当然のごとく、尻すぼみになってしまうことだろう。
そもそも、
「金曜アフタヌーン企画」
というのは、政府が、
「国民にまとまった休みを与えて、そこで金を使わせよう」
という作戦だったのだ。
金を使わせることで、経済を活性化させ、不況を乗り切ろうとするものであったが、そもそも、根本が間違っているのだ。
というのは、国民にお金を使わせるためには、
「割引や、まとまった休み」
などで、
「さぁ、お金を使おう」
などということにはならないのだ。
決定的に基本的なこととして、
「給料のベースアップ」
がなければ、お金を使わない。
バブルを経験した人にとっては、
「いつ何が起こるか分からない」
と思うことだろう。
何しろ、
「銀行は絶対に潰れない」
と言われた、
「銀行不敗神話」
が、バブルがはじけたことで、あっという間に崩れたのだった。
あの時のショックは結構なものだっただろう。
「何を信じていいのか分からない」
ということになる。
何とかバブルを乗り切った。
というか、リストラであったり吸収合併などという、
「荒療治」
作品名:自転車事故と劇場型犯罪 作家名:森本晃次