自転車事故と劇場型犯罪
そこには、事故の散々たる様子が映し出された。事故現場などは、スライド形式だった。しかも、モノクロだっただけに、余計に、不気味さを感じさせられ、けが人の様子が映っていなかっただけマシだったが、それでも、車が大破していたりするのを見るのは、衝撃だったのだ。
親も車を運転するので、それを思うとゾッとしてしまった。時々、急に大げさな考え方を抱くことのある佐和子は、ちょうどその時、そのくせが出てしまったのだろう。
何とも不気味でゾッとしてきたかと思うと、急に身体が震え始めていた。
「一体、どうしたんだろう? 私は」
と思ったが、震えはすぐには止まらない。
だが、ゾクゾクがさらにひどくなってくるのを感じると、急に身体が反応して、椅子を後ろに倒すようにして、立ち上がった。
椅子が、
「ガタン」
という音を立てて、後ろに倒れた。
「どうしたんだ?」
と先生がいうのが早いか、意識が遠のいていく中で、まわりのざわめきも、ほぼ同時に聞こえてきた。
「沢村?」
と先生が叫んで近寄ってきていると思ったが、次の瞬間は、どこかのベッドの上で寝ているところだった。
どれくらい時間が経ったのか分からないが、時間が進んだことは確かだろう。
しかし、自覚はまったくなく、気が付けば、頭が少し重たくて、身体を動かすのが、億劫だったのだ。
「タイムマシンに乗ったら、こんな感じなのかしら?」
と、時々、SF小説を読むのが好きだった佐和子は、小学生にしては、ませていたといってもいいだろう。
身体を起こしたのに気づいたのか、
「大丈夫?」
と女の人の声が聞こえた。
その声は、保健室の先生の声で、椅子に座って、何かを書いていたようだったが、きっと自分の仕事をしていたのだろう。
「私どうしたのかしら?」
というと、
「気を失って、運ばれてきたのよ。だいぶ顔色もよくなったみたいなので、もうこれで大丈夫ね」
と先生はいったのだ。
「ありがとうございます」
といって、頭を下げた。
その時、ただ気を失っただけのはずだったのに、何か、気持ちの悪いものを見たような気がした。それが何だったのか、目が覚めるにしたがって分からなくなってきたのだが、それを、
「まるで、夢を見ているかのようだ」
と思ったのも、半分当たっているような気がした。
意識を失った時と、夢を見ている時、その入り口は違っても、意識を取り戻す時の出口というものに、変わりはないのだろう。
夢というのは、毎日見ているのかと、いつ頃かまでは思っていた。しかし、どこかで、
「夢を見ていない時の方がむしろ多いように思う」
と感じるようになった。
だが、今度は、またある時に、
「夢は本当は毎日見ていて、ただ、それを目が覚めるにしたがって、忘れていくのではないだろうか?」
と感じるようになっていた。
ただ、この意識に信憑性はない。なぜなら、
「それまでずっと思っていたことを覆すには、それだけの理由がなければいけない」
というものだった、
その理由というのは、一種の、
「大義名分」
とでもいえることでなければいけないのではないだろうか?
そうでもなければ、意識を急に変えることを、自分自身が許さない気がするのだ。だが、今から思い出そうとしても、その、
「大義名分」
が見つからない。
ということは、その大義名分を思い出すためには、他に理由がなければいけない。
それを考えると、
「大義名分は、複数あったのではないか?」
と考えるのだ。
大義名分というものが、何も一つである必要はない。それを思うと、
「何も急いで思い出す必要もない」
と思えてきたのだった。
ただ、2回目の、大義名分によって、考えが変わったというのは、まだ小学生の頃だったような気がする。それ以降、また考えが変わるということはなかったので、夢に関しての自己意識は、
「小学生の頃には確立していた」
といってもいいだろう。
だから、逆に、大義名分ができたとすれば、ひょっとすると、この時だったのかも知れない。
起きている時、今回は完全にまわりに見られていたことで、自分が気を失う時が分かった。
いや、まわりに見られているという意識があったことで、気を失うという意識を抱いたまま気を失ったのかも知れない。
ということは、
「気を失う」
という意識がない時には、まわりの目を意識することなく、気が付けば機を失ってしまっていたのだろう。
だから、目が覚めても、時間だけが進んでいて、気を失っていたという時間を感じないのだろう。
そういえば、時間が思ったよりも早く進んでいるということが頻発したことがある、
確かに、
「楽しいと思う時は時間があっという間に過ぎ、辛いや苦しいと思っている時は、時間がなかなか過ぎてくれない」
とよく言われるが、まさにその通りだと思っていたが、本当に時間があっという間に過ぎることがあった時、偶然なのか、それとも、気を失った時が、そういう時だという必然なのか、意識を失っていた時のことだったのかも知れない。
それを考えていると、大義名分とは、
「何か楽しいことを考えている時だ」
と言えるのではないだろうか?
それ以外にも実際にはあり、それをいまだ意識することはなかった。
だが、
「気持ちの悪いものを見た時、気を失う」
というのが当たり前のことだと思っていたので、それ以外にも、自分の意識の中に存在しているものがあるのではないかと感じるのだった。
それから少しして、佐和子は、初潮を迎えた。
「私も大人の身体になっていくのかしら?」
と、最初はビックリしたが、本などでそれくらいの知識は持っていた。
学校で、先生が女子だけを集めて、
「女性の身体」
というものについて話をしてくれた時、
「そんなこと、すでに知っているわ」
とばかりに、素通りに近い感覚で聞いていた佐和子だったが、まわりを見ていると、ことの他皆必死で聞いているので、
「私も知らなかったら、あんな感じになるのかしらね?」
と思うのだった。
佐和子はそれほどませた女の子というわけではなかったと、自分では思っていたが、本当は、いろいろなことに興味津々だったのかも知れない。
中学生になってからの佐和子は、初潮を迎え、
「大人の身体になってきたのかな?」
と感じた時よりも、変調が起こりやすくなってきた。
「精神的なものかしら?」
と感じるようになったのだが、中学生になって、それまでと一番大きな違いが何かということを考えていると、
「男の子の視線を変に感じるようになった」
ということだった。
当然、女子が思春期を迎えたのだから、男子だって迎えるのも当たり前のことで、その意識はしていたはずなのに、いざ視線を浴びると、自分の身体が、どこか反応しているということを感じてしまう。
男子の視線が気持ち悪いと思ったのは、中学時代までのことだった。
自分が高校生になると、今度は男子の視線を受けることで、自分の身体が、心地よく反応していることに気が付いた。
その思いが、
「男性を求めている?」
作品名:自転車事故と劇場型犯罪 作家名:森本晃次