自転車事故と劇場型犯罪
被害者がいないわけではないのに、やらないということは、そこまで追い詰めてしまっては、アーバーを敵に回すことになってしまい、下手をすると、高校収入も、やつらが手をまわし、マスゴミ相手に、スポンサーとならないというような協定を結べば、マスゴミもどうすることもできないからだ。
スポンサーも、
「アーバーを敵にまわすわけには」
ということで、今を時めく業界の寵児のごとく、アーバーは君臨しているといっても過言ではないだろう。
ただ、被害がないわけではない。実際には、事故が起こって、裁判的なことも多いだろう。
そんな中で、実際に、
「人を撥ねる」
という事故が多発しているのも、問題ではあった。
しかし、自転車には、免許が必要なわけではない。小学生でも、幼稚園生でも、乗れるのなら載っても構わないのだ。
ただ、あまりにもルールを守らない人が多すぎる。
「自転車は、基本的に、歩道を走ってはいけない」
ということを認識している人がどれだけいるだろう?
「知ってるよな?」
と誰かに言われたとすれば、
「あ、ああ、知ってるさ」
といって、知らなかった場合は、ほとんどごまかすに違いない。
「いや、知らなかったなぁ」
といって、
「そうか、だったら、教えてあげよう」
というように言われたとしても、相手は心の奥で、
「なんだ、こいつ、こんなことも知らないで、自転車に乗っていたというのか?」
ということになるだろう。
自転車に乗るというのは、大体小学3年生くらいまでには、乗れるようになるもので、乗れるようになると、楽しくなって、少し遠くまで行ってみたいと思うようになるのは必定だろう。
小学3年生に、交通ルールが分かるわけもない。せめて、信号機の見方だとか、車に気を付けるなどと言ったことは分かるだろうが、
「自転車は、歩道を走らなければいけない」
ということや、
「車、自転車、歩行者の優先順位などは分かったとしても、実際に事故になったりするとどうなるか?」
などということが分かるはずもない。
そういう意味で、
「自転車というのは諸刃の剣のようなものだ」
と言えるだろう。
便利であるが、それだけに、危険もはらんでいることが分からないということなのである。
そんな中、危険な走行をしていることで有名になっていた場所があった。
そこは、一応、
「自転車走行可」
という場所であった。
だが、歩道は広いのだが、自転車専用という風に、別れているわけではない。実はこれがミソで、
「自転車走行可と言っても、それは、元々自転車が走行できる場所ではないが、車道だと危険だというような問題がある」
ということから、元々、問題の多いとこるではあった。
そんな場所で、接触くらいは当たり前で、たまに、
「傷害事件、一歩手前」
ということもあった。
そんな時は警察も困るというもので、とりあえず、事故報告だけしておいて、自転車側が保険に入っていれば、(今は保険加入が義務付けられているが)保険で何とかしようとするだろう。
しかし、保険に入っていなかった昔だと、かなり厄介なことになったことだろう。実際にどういう事例があったのかは、よく分からないが、裁判沙汰も少なくはなかったことだろう。
下手をすると、自転車の運転していた人は、
「人生がここで詰んでしまった」
という人だっていただろう。
自転車は、曖昧なだけに、実際に事故を起こしてしまえば、保険に入っていなかったりすると、後が大変だったりする。
それは、加害者アもそうだが、被害者もそうである。
「ちょっとした瞬間の事故が、運命を狂わせるというのは、車の運転だけではない」
ということであった。
車の運転というものが、どういう悲惨なことを引き起こすのかということは、わかり切っていることであるのだが、
「こんな一瞬で運命が変わるなんて」
と思ったら、後の祭りだった。
交通事故を起こした人がどんな心境になるのか分からないが、たぶん、
「これで俺の人生終わった」
と思うことだろう。
実際に、事故を起こした人は、免許の更新の時、あるいは会社などで、
「交通安全講習」
などがあった時、警察が持ってきた、事故を諫めるビデオなどを見ているはずである。
その映像のすさまじさは、本当にすごいもので、事故の場面を敢えて映しているのだ。
普通のテレビ放送では、
「放送事故」
になるレベルである。
実際に、そんなものを見せられると、その時は忘れることができても、事故を起こした瞬間に、完全にフラッシュバックしてくるものだという。
ひょっとすると、軽い事故くらいだったら。
「それよりもマシだ」
という、一種の現実逃避に走ろうとするのかも知れない。
それを思うと、
「交通事故というものが、どれほど悲惨なのかを思い出させるために、敢えて、悲惨なところを見せたのだろう」
と思うのだが、思い出すのが、
「事故を起こしたすぐあとだ」
というのは、実に皮肉なことではないだろうか。
それを感じた時、
「気を付けておけばよかった」
と心の中で後悔しているのが分かるのだが、逆に、
「いまさら後悔してもしょうがないじゃないか」
といっているもう一人の自分がいる。
どちらも、本当の自分であることは分かっている。反省している自分の気持ちも分かるのだが、それだけに、もう一人の、
「いまさら後悔したってどうなるものでもない」
という、当たり前の自分が、後悔する自分に苛立っているのも分かるのだ。
「ということは、実際の自分は、後悔している自分なのだろうか?」
と感じる。
後悔することが、自分の、いや、人間としての性だと思うことで、どこか、納得しようとしている。
それは、
「俺は人間なんだ」
と、後悔することを肯定しようという意識があるからではないだろうか。
そんないろいろな思いが事故を起こした自分の中で、交錯してしまっている。
それがいいのか悪いのか。どこまで考えればいいのか分からない。
だから、考えている自分を肯定したいと思う自分と、
「いや、否定しないといけない」
という自分がいる。
そもそも、勧善懲悪の意識がある人間は、自分を否定したいと思うだろう。
「事故を起こすような自分は、もう、勧善懲悪の資格はない」
と思うのだ。
勧善懲悪であれば、
「事故を起こした自分を否定しなければいけない」
という思いがジレンマとなり、そのジレンマが、どうすればいいのか、自分の立場と、考え方の板挟みとなって、
「お前は事故を起こしたんだから、もう俺ではない」
とばかりに、自己否定に入ろうとする。
そんな葛藤を知らずに、まわりが騒いでいるのを見ると、どこか億劫に感じられるというのも、一つのジレンマだった。
自転車のよる接触事故を最近見たと思っている沢村佐和子という女性がいるのだが、彼女は、以前から、
「二度あることは三度ある」
ではないが、連鎖反応と言えばいいのか、何度も、繰り返すことになることが多かった。
実際に、学生の頃など、電車通学している時、
「人身事故が起これば、それから数日、発生する」
という経験があった。
作品名:自転車事故と劇場型犯罪 作家名:森本晃次