自転車事故と劇場型犯罪
ということである。
「オオカミが来たとウソをついているうちに、誰も信用してくれなくなった」
というオオカミ少年と同じではないか?
ともいえるだろう。
オオカミ少年になってしまうと、もう誰からも信用されなくなるのだが、マスゴミはそれでもいいということなのだろうか?
「真実を伝える」
というのが、モットーなはずなのに、
「売れる記事であれば、ウソでも何でもいいから、読者が喜ぶ記事を与えてやればいい」
と思っているのだろう。
つまりは、読者は、マスゴミから、
「下に見られている」
ということである。
「常葉や文字というのは、いくらでも、相手を洗脳できる」
とでも思っていて、それを裏のスローガンにしているのだとすると、マスゴミは一般市民とは、一線を画したもので、さらに、その先に政府などの政治家がいると思うと、
「政府もマスゴミも敵である」
と言えるだろう。
そもそも、政府もマスゴミも、
「国民のためにある」
あるいは、
「国民のために作られた」
といってもいいだろう。
そんなことを考えていると、今回の、
「世界的なパンデミック」
というのは、一種の
「ノアの箱舟」
ではないかと言えるのではないだろうか?
もちろん、亡くなった人には気の毒であるが、
「世の中をただす」
という意味で、浄化のための大洪水が、今回の、
「パンデミック」
だとすれば、
「国民を中心に、政府もマスゴミも一丸とならなければいけない」
ということであろう。
昔、プロ野球チームが久しぶりに日本一になった時の監督が、
「とにかくチーム一丸となって……」
という言葉を口にしていたのを思い出した。
それは、スタッフ、ファンも含めてということで、
「野球にできて、実際の国民生活の危機においてそれができない」
というのは、本当に情けないことなのであろう。
チーム一丸どころか、蓋を開けてみれば、そこに見えてくるのは、
「責任のなすりつけ合い」
だったのだ。
「どうせ、ロクなことにならないのだから、責任を押し付けられても困る」
という、言い訳の応酬で、そんな状態の国家に、誰が賛同するというのだろうか?
そんな今の政府、マスゴミ、国民と、それぞれがそれぞれの言い分を言い訳にする。だからこそ、マスゴミも、国民も一部の若い連中などを中心に、
「切り取り解釈」
というものが、根づいてきたのだろう。
特に政府の輩、ソーリなどはひどいもので、もうすでに、
「世界的なパンデミック」
というものを忘れ、
「疲弊した経済をどうするか?」
ということに関わっている。
ただ、それも、国民生活のために必要なことだということで解釈をしているとすれば、それは、
「実に綺麗なお花畑しか見えていない」
ということで、これも結局、都合のいい切り取りである。
政府が経済に力を入れるのは、
「自分たちの私利私欲を満たしたい」
というところから来ているのだ。
経済を復興させると、自分たちに入ってくるであろう、
「甘い汁」
を吸いやすくなる、
それだけではなく、商売がうまくいけば、
「政府の政策が成功した」
ということで、選挙の時の票になるのだ。
選挙の票は、基本的には、
「金で買えるものではない」
と言われている。
実際には、金で買っている場合もあるだろうが、基本は罪になるのだ。
だが、実績による票であれば、これに超したことはない。
だから、政府は、経済復興に必死になるのだ。
もし、失敗でもすれば、そこには、政府批判が巻き起こり、下手をすれば、
「解散総選挙」
なるものが、任期を待たずにやってくるということになるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「政府が結局は、どうすることもできないので、棚に上げ、票になるということにだけ目を向ける」
ということになり、
「国民生活など、他人事だ」
ということになってしまうだろう。
そんなパンデミックの時代が次第に膠着状態になってくると、パンデミックによって、
「便利だ」
と言われ、重宝されてきたことが、当時はあまり深堀されなかった、
「裏で起こっていた問題点」
というものが、やっと浮き彫りになってきた。
これも、本当は、その時リアルに対策を取っていれば、もっと簡単にことが進んだのかも知れないというのに、蓋を開けてみれば、
「もう、どうすることもできなくなっていた」
という状態になっていることも少なくなかっただろう。
アーバーイーツの問題などもその一つで、もちろん、アーバーだけの責任ではないのだろうが、本当はクローズアップされるべき問題であったのを、
「厄介な問題だ」
ということで、先送りにしてきたことが今では大きな社会問題になってきていたのだった。
というのが、前述の、
「自転車問題」
というものであり、
「アーバーの配達員のように、配達時間に遅れたら罰金があるのか、逆に、時間通りにうまく配達できれば、それの継続に応じて、褒美でも出るというのか」
どちらにしても、会社側の勝手な都合によって、自転車を使っての配達は、縦横無尽で、走行してはいけない歩道を、人のことなどおかまいなしに、猛スピードで走っているのだった。
マスゴミも、
「毎日毎日パンデミックの話題だけではダメだ」
ということで、読者が飽きてきたところを見計らうようにして、
「自転車配達の、我が物顔の暴走」
というような番組を作成する。
本来であれば、数か月前くらいには、アーバーのような会社のやり方を、
「パンデミック禍においても、逞しく生きる、宅配業界の今」
などとして、新しい産業が今の時代に合っているということを、誇大宣伝ともいうべきないようで持ち上げておいて、その舌の根も乾かむうちに、今度はその配送の問題を番組にする。
確かに、街の人の話を聴くと、
「危ない。何度轢かれそうになったか?」
と、もっともらしいインタビューをしているが、それも、インタビューしたすべての人に対してのものではないだろう。
危ないということを視聴者に認識させるための、陽動手段でしかないのだ。
そんなところが、マスゴミの面目躍如というところか、露骨に、
「自分たちさえよければ」
というところが眼に見えてくるのであった。
そんなことを考えていると、
「マスゴミというのは、本当に厄介だ」
というところしか見えなくなるというのが、正直なところだろう。
あまりにも、あからさまにすることで、いい部分までもが色褪せて見えてきてしまうのだ。
そう思うと、
「マスゴミは、自分で自分の首を絞めている」
と思えてくる。
これが、結局、やつらのやることが、客観的に見ているつもりでいて、そのすべてが、他人事のようにしか見えていないということになるのだ。
「アーバーの配達員がどれほど危険なことをしているのか?」
というのは、番組から見えてくるのだが、
「それがどれほど危険なことか?」
ということで、実際の被害について、一切語ろうとしない。
作品名:自転車事故と劇場型犯罪 作家名:森本晃次