自転車事故と劇場型犯罪
「とりあえず、我々も死力を尽くしますが、あとは、本人の気力と、運を天に任せるしかありません」
と医者はいったが、佐和子としても、
「一生懸命にできるだけのことはした」
ということだろうから、分かってあげられる気がしたのだ。
そんな中、今佐和子は、
「できるだけのことはする」
という言葉を医者から聞いたことで、もう一つ似た言葉があり、その言葉との間に強弱があるのかどうかを考えていた。
その言葉とは、
「やるだけのことはする」
というものであった。
前者と後者で、ニュアンスが、若干違ってることを感じた。
前者は、
「自分の限界を分かっていて、できることとできないことを考えて、できることだけを行う」
というものである。
つまり、
「できないことに足を踏み入れると、取り返しのつかないことになる」
ということの裏返しの気がする。
逆に、
「やることはやる」
というのは、
「やらなければいけないということは分かっていて、それに対してミスのないように、遂行する」
というもので、今度は、前者よりも、自分に自信をもっていて、やるべきことが分かっている、つまりは、
「できることと、やるべきことの両方を把握していて、できるできないということよりも、やれることというのが最優先になることで、できることという認識が頭の中で欠如している」
と言えるのではないだろうか?
だから、後者はどこか、事務的なところがあり、人間味を感じさせない。
本来であれば、後者の方が冷静沈着で、
「そうあるべきだ」
と言えるのだろうが、そう感じてしまうと、
「どこか他人事のようでさばさばしているように見えることで、人間らしさというものがない」
と言われるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「私は、医者として、どうすればいいんだろう?」
と、若い医者が最初の頃に落ち込んでいるというような、医療ドラマを見たことが何度もあった。
昔は医療ドラマも好きで見ていたが、最近は、どうにも見たいとは思わない。
見たくないと思うドラマは、、医療ドラマと刑事ドラマ、さらにいえば、純愛モノなのでも、どちらかが病気か何かで、
「余命数カ月」
などというドラマである。
要するに、重たいのだ。
見ていて、リアルではなく、ドラマだということは百も承知のくせに、それを納得できるだけの思いがないのだ。
ものすごいリアルさを感じ、ドラマの重たさゆえ、同じように、頭を抑えられているかのように思う。
「重たいドラマは、いくら、笑いどころを作ったとしても、最後は、その重たさに自分が耐えられるかどうか」
と考えてしまう。
そういえば、親がよく言っていたが、
「年を取るにつれば、ドラマを見ていて、涙ぐむことが多くなった」
といっていた。
どうやら自分の親もそうだったようで、昔あった、昼メロと呼ばれる、少しリアルな、
「大人の恋愛物語」
というのが、ものすごくリアルなんだといっていたのだった。
だが、意識が戻らないというのは、かなりディープなところであった。
だが、佐和子は、関わってしまった以上、放っておくことができなくなった。もし、放っておいてしまうと、何よりも、
「あの人はどうなってしまったんだろう?」
という意識と、さらに、自分の中にある
「勧善懲悪」
という気持ちを失ってしまうかのように思えてくるのだ。
だから、ディープだと思っても、何かの結論が出るまで、関わらなければいけない。さらに、あの加害者がどうなるのかということも気になる。
いや、勧善懲悪とすれば、むしろ、
「あの加害者がどのような裁きを受けるのか?」
ということの方が、この事件、いや事故において、気になるところであった。
警察から、これ以上話が聞けるわけもないが、どうにも気になるのだ。
警察だって忙しいのだし、守秘義務から、いくら通報者だとはいえ、何でも教えてもらえるわけもない。だから、どうなったかは分からないが、とりあえず、少なくとも厳重注意くらいはあるだろう。
だが、
「被害者がこのまま、意識が戻らなかったらどうなるのだろう?」
ということであった。
病院の手術も終わり、佐和子が帰ってから、被害者の家族がやってきたという。
被害者は、この街に一人暮らしをしていて、田舎の家族も、仕事に出ているので、すぐには連絡がつかなかった。しかも、車で来るとしても、高速道路がないような田舎だということで、
「向こうを出てからこちらに来るまで、普通にきても、4時間くらいはかかるだろう」
ということであった。
佐和子は、病院にいたのは、2時間半くらいだっただろうか? 当然、被害者の家族とは面会もしていない。
もっとも、このような状況で、どう家族と向き合えばいいのか?
笑顔で会える環境でないのなら、その場にいないのが一番いい。
家族がやってきてからの光景は、ドラマなどで嫌というほど見ていた。それがリアルとなると、本当に見たいわけがあるわけもない。
警察からは、
「何かあったら、ひょっとすると、またドご連絡を取るかも知れませんが、今日はありがとうございました。お引き取りいただいて結構です」
と言われたので、
「分かりました。失礼します」
といって、その場を後にした。
そんな状態で、一人取り残された気分になった佐和子は、何となく、釈然としない思いを抱いていた。
何が釈然としないのかというと、
「被害者があんなになったのに、加害者が、どこまでの罰を負うのかということが分からないと気が済まないよな」
と思ったからだ。
きっと、このまま、加害者のプライバシー保護から、目撃者と言えども、知らされることがないと思うと、何か理不尽な気がした。
先ほどの加害者の態度を思い出していた。
「いくら気が動転していたとしても、自分がいるにも関わらず、明らかに、その場から立ち去ろうとしたではないか?」
ということで、
「許せない」
という思いが、またこみあげてきた。
刑事事件にどこまでできるかであろうが、何しろ自転車でのことだ。車やバイクではねたのとはわけが違う。
かといって、今起こっていることは、
「被害者の意識が戻らず、このままいけば、植物人間になってしまう」
ということであった。
「意識がいつ戻るとも知れず、自分の意志で呼吸もできず、生きているのかどうなのか分からないまま、生かされているということになる」
というのだ。
しかも、この問題は、どこまで保険や、国が補償してくれるのか分からないが、そんなものが及びもしないほどの金銭的な負担が、家族に背負わされることになるだろう。
人工呼吸器、生命維持装置というものが、どれほどのものなのか分からないが、いつ目覚めるとも知れぬ家族を、ずっと見守っていなければならないのだ。
さらに、あまりにもその状況が長いと、まわりの家族が肉体的にも精神的にも参ってしまう。
そうなると、
「一思いに、楽にしてやりたい」
と思うのか。それとも、自分が楽になりたいと思うのか。人工呼吸器を外すという衝動に駆られることもあるかも知れない。
いわゆる、
「尊厳死」
あるいは、
「安楽死」
作品名:自転車事故と劇場型犯罪 作家名:森本晃次