自転車事故と劇場型犯罪
「この時間って、結構人通りも多いし、こんなに大きな駅前通りなので、歩道の、往来も多いんですよ。一方向に向かって、横に並列して歩くなんて、ざらですよね? しかも、あの加害者のように、歩道を縦横無尽に走り回っている人って、多いじゃないですか。いつも危ないって思っているんですよ。いずれはこんな事故が起きなければいいなって思ていたんですが、結果として事故が起きてしまった。あの加害者は、自分がどういう立場なのかってことが分かっていなかったらしくて、ここに運び込まれた被害者の女性をひっクリ返しておきながら、その場から立ち去ろうとしたんですよ。だから、私がそれを制して、まずは、救急車を呼んで、警察に電話をさせたんですよ」
というと、刑事が一瞬言葉をさえぎって。
「その男は、素直にそれには従ったんですか?」
と聞くので、
「ええ、素直に従いました。とにかく、自分で事故を起こしておきながら、自分の立場が分かっていないというか、どうしていいのか分からずにパニくっているんです。普通であれば、いくらパニックになっているといっても、そこまで何もできないというのもおかしいじゃないですか。しかもその場所から逃げ出そうとしているのだから、救いようがないと思うでしょう?」
というと、刑事は頷いていた。
さらに、佐和子は続けた。
「どうやら、彼は配達員のようで、頭の中には、配達のことしか頭になくて、まさかとは思うけど、配達さえできれば、自分が許されるかのように思っていたのではないかと思うほどなんですよ」
と、佐和子がいうと、刑事はまた、
「うんうん」
と大きく頷いていた。
「まさか、私はそんなことはないだろうと思って話をしているんですが、まさか、本当にそういうことなわけはないですよね?」
と、佐和子は、逆に刑事に聞いたのだ。
すると刑事は少し、苦み走ったような顔になって、
「ああ、いや、そんな感じが漂っていましたね。こっちが事情を聴いているのに、何か上の空だったので、こっちが、少し諫めたんですよ。すると、小さな声で、配達しないということをいったんですよ。私も呆れてしまって、何も言えなくなったんですが、最近の若者って、そういう人が多いんでしょうか? 目の前の一点しか見ていなくて、自分の今の立場を分かっているのか、何か逃げているようにしか思えなくて、苛立ちしか感じなかったですね」
と刑事は、やるせなさそうな表情になったのだ。
「そんな人間、本当に最近増えたと聞いたことがありますが、どうなんですかね?」
と佐和子がいうと、
「実際にそのようですよ。私も刑事をやっていて。こんなやるせなくて、信じられないような気分になることは、昔なら考えられないことだったといってもいいくらいでしたえ」
と、刑事はいった。
「それで私も苛立ってしまったんですよ。まず、救急車の手配も私がいったから電話を掛けたわけで、警察に連絡をしないといけないということを分かっていませんでしたからね。何をすればいいか、私に聞く始末ですよ。だから私は、警察に連絡しろと言ったんですよ。そうしないと生き逃げになるってですね」
というと、
「なるほど、その通りです」
と刑事はいった。
「ひき逃げの罪として、過失傷害、あるいは致死、そして、救護責任義務違反と、さらに、
警察などへの事故報告義務違反だって言ってやったんですよ。ひき逃げの場合は、相当罪が重くなるので、最初から通報している方がいいとですね。すると、あの男は、慌てて警察に通報したみたいですね」
と佐和子はいった。
「そうですね。我々が質もしても、確かに要領を得ないようなところがありましたからね。事故で気が動転しているというのであれば、分からなくもないんですが、それだけではない感じがしていました」
と刑事さんはいうのだった。
「そうですか、本当に最近は自転車でのああいう事故は多いですからね。特に、アーバーイーツやそれに似た会社の自転車による事故は多発する一方で、今は、パンデミックを若干減りつつあるのに、アーバー人気は相変わらずですからね。それだけ、楽をしようという人が増えたんでしょうかね?」
と、佐和子は、冗談めかしてあいたが、ほとんど、本気であった。
「ところで、被害者の方はいかがですか?」
と佐和子が聞かれて、
「詳しいことは医者に聴いてほしいと思うのですが、今は緊急手術を行うということで、ここに来てから、そろそろ2時間くらいですかね? 手術室に入ったままです」
というと、
「そうですか、あなたもいい迷惑ですよね? 加害者に変わって我々が謝罪します」
ということであった。
「いえいえ、そんなことはいいんですよ。私も帰ってから、何かをしようと思っていたわけではないからですね」
というと、
「そういっていただけると助かります」
と刑事はいって、そこで一拍あったかと思ったが、一瞬間をおいて、刑事がさらに続けた。
「つかぬことを伺いますが、あなたは、加害者か、被害者のどちらかをご存じでしょうか?」
と聞かれた。
「えっ? どういうことですか? 私は二人とも知りませんよ?」
というと、刑事はさらに追及するようなことはせず、すぐに、どうしてそういう質問をしたのか、答えた。
「実はですね。加害者である男なんですが、彼は自分のことを、赤坂さとしと名乗っていたんです。なるほど、先ほどの沢村さんのお話にあったように、あの男は、事故のショックからか、平常心を失っているようで、情緒不安定になっていたですが、時間が経ってくると、少しずつ落ち着いてきたんですね。そこで、事故を起こした時のことを少しずつでも思い出すように話していたんですが、そのうちに、あなたのことを、どこかで会った記憶があると言い出したんですよ」
というではないか?
「私と遭ったことがある?」
と言われて、佐和子は自分の記憶を手繰ってみたが、自分の記憶と意識の狭間から、遠い記憶まで手繰ったつもりだったが、どうにもあの男の記憶がよみがえってくることはなかった。
「いや、思い出すことはできないですね。その人は私をどこで見かけたといっているんですか?」
と佐和子は聞いた。
佐和子は自分が思い出せないのは、あの男のことを、最初から毛嫌いしていて、
「私の知り合いに、あんな変な男などいるわけはない」
という思い込みであるということは、分かっている気がした。
だから、何とか記憶をさかのぼらせて思い出そうとしたのだが、どうしても思い出すことができなかった。
「いえ、わかりせんね。その赤坂という男は、私とどこで出会ったといっているんですか?」
と訊ねると、
「ハッキリとは覚えていないが、どこかで見たことがあるというようなことをいっているんですよ」
というのを聴いて、佐和子は、さらに怪訝な表情になった。
本来なら、刑事から変に勘ぐられるのが嫌なので、少しオブラートに包むくらいのことはあってもしかるべきだが、佐和子にはそんなつもりはなく、完全にあからさまだったのだ。
作品名:自転車事故と劇場型犯罪 作家名:森本晃次