自転車事故と劇場型犯罪
国家に権力や強制力が集中する。いや、国家というよりも、国家元首に集中すると言った方がいいだろう。
そうなってくると、国家というものは、さらに独裁色を表す象徴となり、
「国家元首による独裁」
という考え方を作ることになる。
同じ独裁でも、ヒトラーのように、民主国家の中で、民衆の心をつかむことに成功し、国民を、独裁国家に引き込むための、時代背景や国家事情という後ろ盾があり、まんまと国家を自分のものとしたという例もあれば、ソ連のように、
「社会主義国家として、国家に権力が集中し、労働者の中から生まれた国家は、強力な強制力を持つ」
ということでの独裁化ということで、同じ独裁国家でも、その成り立ちは違っていたのだ。
ヒトラーは、当初スターリンと同盟を結んでいた。
元々は、
「共産主義は一番の敵だ」
と言っていたにも関わらずである。
独ソ不可侵条約が結ばれた時、時の首相に、
「ヨーロッパは、不可解千万」
と言わせただけのことはあるというものだ。
ただ、それはあくまでも、主義に関係なく、自分たちの利害関係だけに基づいた条約だったのだ。
だから、ドイツは数年で、不可侵条約を一方的に破棄し、ソ連に攻め込むという暴挙を行うことになるのだ。
ただ、ヒトラーという男はバカではない。結構過去の教訓も持っていたはずなのに、なぜナポレオンと同じ道を、そして、第一次大戦での敗北の原因となった、東西での同時戦線ということを、やってのけようとしたのか、それだけ自分に、いや、ドイツという国家に自信を持っていたということであろうか?
それを思うと、主義というものは、
「時代によって、いろいろな解釈ができる」
と言えるだろう。
日本において、発展してきたはずの民主主義、気が付けば、迷走している。
「自由」
というのをはき違えて、個人の自由を高らかに謳い始めると、そこには、
「力の強い者が勝つ」
という競争の理論があり、そもそも、その競争を煽ったのが、
「自由」
という考え方ではなかったか。
それを思うと、
「法律、ルール、モラル」
それらの境界線が見えているのか見えないのかが分からなくなってくるというものなのだろう。
「法律であれば、守らなければならないが、ルールやモラルに関してはそんなことはない」
と思っている人が、今は若者を中心にほとんどであろう。
なぜかというと、
「法律には、罰則があるからだ」
という、目に見えたものがあるからだった。
例えば、
「人を殺せば、警察で取り調べを受け、裁判に掛けられ、有罪となると、懲役刑が待っている」
しかも、前科がつくことで、それが、一生付きまとい、江戸時代の犯罪者が身体にまとわされた、
「罪人という烙印」
を、情報共有という形で、データ化されることで、完全に生きている間、付きまとってくるのだ。
だから、法律を犯すようなことは、よほどのことがなければないのだろうが、その割に、毎日のように世間を騒がせている事件が多いというのは、
「それだけ人口が多い」
というだけで片付けられるものではないのかも知れない。
そんなことを考えていると、何をどう考えればいいのか、どうしても、紆余曲折してくる。
自由というのは、自分を束縛するものが、少ないということであり、それは、裏を返せば、すべてのことにおいて、
「自己責任」
ということだ。
国家や法律は、決まったこと以外に介入することはない。だから、流動的である、民事に対しては、警察は不介入だったりするのだ。
そんな民主国家の弊害が、自分たちの気づかないところで、いろいろな事件の芽を生み出しているのかも知れない。
自転車事故
佐和子は、そんな、
「自転車走行可」
という歩道で、いつものように人を避けるようにして、家路を急いでいた。
その時、一人の女性が、少しフラフラしながら歩いていたのだ。体調でも悪いのか、歩きながら、時々、腰を下ろそうとする素振りを見せる。それでも、すぐに気を取り直して歩こうとするのだが、どうにもうまくいかず、また休むような素振りになる。
まわりにいる人は気づいていないというわけもないだろうに、無視して、早歩きをしている、
中には、わざと、彼女に近づいた時、露骨にスピードを上げて、その場を去っているというあからさまな行動をする人もいたりするくらいだった。
そんなものを見ていると、苛立ちとともに、
「私だったら助けてあげるだろうか?」
と考えるのだった。
そう思いながら近づいていくと、その女性の顔はやはり真っ青なようで、本当であれば、ベンチにでも座らせて、
「少し休憩していった方がいいですよ」
というべきなのだろう。
しかし、実際に近づくと、必死な形相が、
「休めばいい」
などという中途半端な同情は、却ってよくないような気がした。
なぜなら、必死で頑張っている人の、やる気をそぐかのような態度は、忍びないと思うからだった。
だからと言って、
「頑張れ」
というのも、何かが違う。
頑張っている人間に、
「頑張れ」
というのは、本末転倒であり、下手をすると、怒られるレベルではあないだろうか?
しかし、頑張っている人を応援したいという思いはウソではない。ただ、あからさまにみられるのは嫌だったのだ。
「だからなのかな?」
まわりの人が誰も関わらないのは、
「そういう相手の気持ちを思い図ってのことなのだろうか?」
とも考えたが、それはあまりにも違う気がした。
皆が皆、そういうわけではないと思うからで、もし、そうだったとすれば、世の中は、
「聖人君子の集まり」
ということになり、少なくとも、もう少し住みやすい世の中になることだろう。
ただ、世の中には、
「偽善者」
という人も一定数いて、そんな人も含まれているのではないかと思うのも、無理もないことだろう。
そんなことを考えていると、
「やっぱり、関わらないのが、世の中の暗黙の了解なのだろうか?」
とも思う。
ただ、この時の佐和子は、
「気づいてしまった」
のである。
気にしてしまったことで、後に引き下がれないと思った以上、声を掛けないと、後悔すると思ったのだ。
そう思って、彼女に近づこうとしたその時である。
自分の横をスーッと走り去る自転車があった。どうも、自分をよけようとでもしたのか、バランスを崩し、その勢いで、気分の悪そうにしているその女性に、一直線に突っ込んでいった。
すべてが、一瞬の出来事であった。
「ガッシャン」
という音がしたかと思うと、自転車がひっくり返り、載っていた男は、
「いたたた」
と言いながら、後頭部のあたりを抑えて、顔をしかめている。
どうして、佐和子が、自転車の男の方にだけ目が向いたのかというと、その男が大げさに叫ぶような感じでひっくり返ったからで、彼女の方はというと、今度はまったく何も反応がなかったのである。
一瞬の迷いの中で、よく考えてみると、反応がない方が怖いではないか。
その女性は、その場に倒れていた。しかも、まったく声を上げることもなく、うつ伏せに倒れている。
「微動だにしない」
作品名:自転車事故と劇場型犯罪 作家名:森本晃次