小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

城好きのマスター

INDEX|8ページ/21ページ|

次のページ前のページ
 

 という時代は、戦国が進んできて、実際に確率したのは、羽柴秀吉による、
「太閤検地」
 からではないだろうか。
 太閤検地というのは、
「土地を測量し、その土地の広さによって得られる作物の量を石高という形で選定し、秀吉の選定した領主は、その年貢に応じて、戦争があった時、兵を徴収する数を決める」
 というものであった。
「〇万石」
 などと言われるのは、土地から上がるコメの数を元に算出されるもので、領地の広さとは比例するものではないのだった。
 そして、太閤検地の目的は、
「戦は武士が行うもので、百姓は田を耕すものだ」
 という、
「完全分業制」
 をすることになるのだった。
 元々、これが封建制度の基本だったはずなのだが、どのあたりから、農民までもが駆り出されるようになったのか、それをただしたのが秀吉ということになる。
 これだけでも、秀吉の功績、あるいは、政治体制はしっかりしていたということだろう。江戸幕府を開いた家康も、秀吉のやり方を踏襲したところは結構あるだろう。
 それが、秀吉という男のやりかたであり、
「まわりの人間が優秀だった」
 ということもあるだろう。
 軍師として有名な黒田官兵衛、城づくりの名手であり、秀吉の一番の相談役である弟の秀長、さらに、内政を一手に任せた石田三成と、戦働きをできる武将だけではなく、頭脳派と呼ばれる人がたくさんいたのも、秀吉のよかったところではないだろうか。
 そんな秀吉は、たくさんの城を築いた。
 有名なところでも、天下一の城として有名な、
「大坂城」
 今残っているのは、大阪の陣で焼失した、豊臣大坂城ではなく、その後に再建した、徳川大坂城であった。
 実際の豊臣大坂城は、天守は黒を基調にしていて、ところどころ金箔が催されている。重厚さときらびやかさの調和が、豊臣大坂城の特徴だった。
 しかも、濠の大きさ、石垣の高さも日本一、伊賀上野城や、四国の丸亀城と、石垣の高さで有名なところもあるが、
「見ただけで圧倒される」
 というのは大坂城が圧倒的であろう。
 大坂城というと、さらには、櫓の数もかなりあり、
「他の城では、天守としても普通にあるくらいの櫓が、本当にたくさんある」
 ということであった。
 それまでの城というと、
「やっと天守を備えた城が出てきた」
 というくらいで、ここまですごいというのは、ビックリさせられるものだったであろう。
 特に、ここの武家屋敷はかなりの広さがあったに違いない。
 何しろ、各地の大名の家族を、大阪城内の武家屋敷に住まわせたのだから、かなりのものだっただろう。
 半分は人質としての様相も含まれている。
「家族を大坂城にかくまっているのだから、謀反を起こそうものなら、家族の命はない」
 といわんばかりであった。
 大坂城には、とにかく、天下人である自分の権威を表すという大目的があったのだ。
 その次に着目すべきは、京都にあったと言われる、
「聚楽第」
 であろう。
 ここは、朝廷から関白の位に任じられた秀吉が、京で執務を行う時のために作らせたもので、城郭建築や、館のような建築とを融合させたものだと言われている。
 特に、京ということで、朝廷、天皇に対しての思惑が強いことで、
「絢爛豪華」
 なつくりを最優先したのだろう。
 つまり、
「聚楽第というところは、関白の館である」
 ということになるのだ。
 だから、秀吉が、自分の関白職を、
「男子が生まれない」
 という理由から、安易に、養子の秀次に譲って、時分は太閤として君臨した時、聚楽第を関白になった秀次に譲ったのだ。
 実際には、すぐに側室の淀君が秀頼を生むことで、
「しまった」
 と思った秀吉によって葬り去れることになるのだが、その有様は、まるで、室町幕府における、
「八代将軍足利義政」
 を地で言っていたといってもいいだろう。
 義政の時は、奥さんの日野富子にも、側室にも男子ができず、出家していた弟を還俗させて、将軍に据えたのだが、すぐに、子供が生まれた。元々弟に管領である細川勝元をつけていたことで、窮地に立った日野富子だったが、対立していた、山名宗全を味方につけて、対抗した。
 しかし、それがまずかったのか、赤松家の、
「御家騒動」
 とも絡まって、細川と山名の全面戦争となったのだ。
 これが有名な、
「応仁の乱」
 である。
 この戦は、各地の守護大名を巻き込んで、西軍東軍に別れて、大戦争を引き起こした。
 実に11年間という長きにわたって、勝ったり負けたりを繰り返し、結果、京の街は焼け野原になってしまったというのだ。
 この戦争が終わったのは、元々の大将であった、山名宗全、細川勝元と、次々に亡くなり、さらに、実際に戦をしている守護大名の、元々収めているところで、領主がいないのをいいことに、反乱がおこったりして、尻に火がつき始めたんpだった。
 それにより、
「京で戦などやってはいられない」
 ということで、領国に帰っていく。
 そうなってしまっては、もう戦というものはなりたたなくなる。
 結果
「自然消滅」
 というような形で終わってしまった応仁の乱であったが、この乱が、その後に訪れた、
「戦国時代の幕開け」
 という人もいるくらいだ。
 直接の原因ではないかも知れないが、大きな影響を与えたのは間違いないだろう。そう思うと、
「歴史は繋がっている」
 あるいは、
「歴史は繰り返される」
 というのも、まんざらでもないような気がする。
 実際に秀吉も、
「息子に権力を譲りたい」
 と思うのも当たり前のことで、義政における日野富子と同じ立場であった淀君も、日野富子に負けず劣らずの欲を持った女で、それが、その後の秀次事件を引き起こしたのだ。
 秀次事件というのは、秀次が、
「素行の悪さが目立つ」
 ということもあり、
「秀次が謀反を計画している」
 というウワサが流れたことで、秀吉が本当に信じたのか分からないが、結果として、捉えられ、高野山に幽閉された。
「その後、切腹を命じられ、切腹して果てた」
 というのが、
「秀次事件」
 であった。
 そして秀吉は、秀次の亡霊に悩まされたともいうが、それが本当かどうか分からないが、何といっても、秀次の身内を皆殺しにしたくらいなので、亡霊に悩まされたとしても、仕方がないという思いがあったのかも知れない。
 しかも、秀次が生きた証ともいうべきものを、徹底的に破壊もした。だから、せっかく自分が作り、
「関白の屋敷」
 として君臨していた聚楽第も、跡形もなく取り壊したというのだから、それはひどいものだったのだろう。
 だから、聚楽第というのは、資料はほとんど残っていない。ただ、
「かなりでかい、立派なものだった」
 ということは証明されているようだった。
 秀吉が建設して、すでに残っていない城というと、佐賀の名護屋城がそうではないだろうか?
 秀次事件の後、千利休を切腹させたりもした秀吉は、元々の野望であった、
「明国に攻め入る」
 ということで、朝鮮に、
「道案内」
 をさせようとして、朝鮮が断ってきたことから、朝鮮への出兵を命じた。
作品名:城好きのマスター 作家名:森本晃次