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城好きのマスター

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「神なき知育は、知恵ある悪魔を作るものなり」
 ということであった。
 つまり、
「秩序のない知恵というものは、知恵だけに凝り固まった、自分だけのことしか考えないような悪知恵の働く、悪魔のような人間やロボットを作ることになる」
 という、戒めであった。
 今でも、某大学の入り口に飾られているということで、大学の創設者がその言葉をモットーとして、工学部を運営しているということになるのだ。
 その考えが、ロボット工学開発において、。
「ロボット工学三原則」
 に近い、もう一つのモットーだといっても過言ではないだろう。
 さて、いよいよ、
「フレーム問題」
 ということになるのだが、
 これは、ロボットに対しての、
「抑止力」
 ではなく、それ以前の、
「人工知能と、それに対しての行動」
 ということに限定されるのだ。
 つまりは、ロボット工学三原則を考えるのは、もちろんだが、それ以前に、
「ロボットの人工知能」
 というものを開発できるかできないか?
 ということに関わってくるのである。
 人口知能というものが、どのような発想になるのかというと、一番のネックとして考えられることは、一口でいえば、
「無数に広がる可能性」
 ということであろう。
「あれ? これ、どこかで出てきたような」
 と賢明な読者であれば、ピンとくるであろう。
 そう、タイムマシン開発で出てきた。
「パラレルワールドの発想」
 である。
 どちらも、キーワードは、
「無限に広がる可能性」
 ということである。
 今度のフレーム問題というものは、一口でいうと、
「無限の可能性を、果たしてロボットは、認識できるのだろうか?」
 ということである。
 逆にいえば、ロボットではなく、認識するのは、人間が取り付けた人工知能ということになる」
 というのである。
 例えば、一つの洞窟の中に、ロボットに必要な燃料があったとする。それをロボットにとってくるように命令した場合、ロボットは、燃料を見つけて、それを手に取って、表に運ぼうとする。
 すると、実はその下には、爆弾が仕掛けられていて、
「上の重しを外すと、起爆装置が入る」
 という仕掛けになっているのだった。
 ロボットがそのことを知らなかったので、爆弾は爆発し、燃料とともに、ロボットは木っ端みじんとなって吹っ飛んでしまったのだ。
 そこで、今度は、ロボットに、爆弾の起爆装置に仕掛けだけは説明しておいた2号機に同じことをさせると、今度は、燃料の前で動かなくなった。どうしていいのか分からなくなったようだ。
 そこで、今度はそれらの対象方法を教え込ませてもう一度洞窟に入れようとすると、今度は、最初から一歩も動けなくなってしまったのだ。
 ロボットには、
「思考する」
 という回路を一緒に組み込んだのだが、学習をしないとそれが分からないようで、まず最初に、あらゆる可能性に対して考えるようだ。
 例えば、
「自分が動けば、空の色が真っ暗になってしまう」
 などといった、この場合とはまったく関係ないあらゆる可能性を考えてしまうというのだ。
 つまりは、
「無限に広がる可能性」
 である。
 それを、果たして、ロボットは把握して行動ができないから動けなくなってしまったのだ。
 人間においても、同じことだろう。
 だが、
「では、人間はどうして普通に行動ができるのか?」
 ということであるが、
「それは、パターンごとに考えることができるからだ」
 ということであった。
 確かに人間は、余計なことを考えてしまうことはあっても、すぐに冷静な判断を下すことができる。
 特に、今回の爆弾であれば、例えば誰かほかにるかどうかを先に探してみて、二人で行えば、爆弾の爆発を防ぐこともできる。
 他にいい方法だってあり、その発想も浮かぶかも知れない。
 しかし、それがロボットの人工知能にはできない。もし、ロボットに意思があったとすれば、
「人間というのは、何と頭のいい動物なのか。まるで全知全能ではないか?」
 と思うことだろう。
 それこそ、人間が、
「神は人間を作られた、全知全能のものなのだ」
 という発想と同じである。
 この考え方は、
「自然の摂理として当たり前」
 のことなのか、あるいは、
「人間が造り上げた、理論的な行動なのか?」
 とどちらなのか、普通に考えれば前者なのだろうが、人間としては、後者だと思いたいものではないだろうか。
 そんなことを考えていると、
「ロボットというものは、どうしても人間になりきることはできない」
 と言えるだろう。
 それは、人間が神になれないのと同じ発想で、
「昔あった、ロボットアニメなので、心を持ったロボットが人間になりたいと思っているのだ」
 というような話であったが、
「人間には、神にどうしてもなれないということを、理屈では分かっている」
 と思うのだが、それを果たして、ロボットが、
「似たような発想になれるのだろうか?」
 と考えると無理な気がして仕方がない。
 そもそもフレーム問題という考え方は、
「無限に広がる可能性だと思うから理解できないのであって、パターンにはめ込めた、フレームのようなものに、それぞれの可能性を組み込めば、できるのではないか?」
 という発想であった。
 しかし、これは実際にやってみれば分かるのだが、実は不可能だった。これは、
「数学的に考えれば、簡単にダメだという理屈が分かるというもの」
 というのである。
 つまり、
「無限なものを何で割っても、答えは無限でしかない」
 ということになるのだ。
 つまり、いくらいくつかのパターンに絞ったとしても、絞った先でそこから先の可能性を考えたとしても、さらに、無限でしかない。
 ということは、
「今度はそのパターンが無限でなければ、その先のパターンを有限にすることはできない」
 ということになるのだが、
「いくら、無限に細分化しても、その先が有限になるとは限らない」
 ということになるのである。
 それらの考え方を加味すると、
「無限というのはどこまで言っても無限、いくらパターンで括ろうとしても、そこには無理が生じるのだ」
 ということであった。
 つまり、
「フレーム問題」
 というものは、神はもちろん、人間には解決できるものだが、人間が作るロボットにはそれを解決することができない。
 ということであり、
「人間というものは、自分にできても、創造物に同じ機能を持たせるということはできない」
 ということになるのだろう。
 そう考えると、結局、
「人間には、人工知能を持ったロボットを作ることはできない」
 ということであり、
「ロボット工学三原則」
 と同様に、人間に解決はできない。
「ロボット開発など永遠に無理ではないか」
 ということになるのだろうが、どうしても、諦めきれず、ずっとロボット工学の研究に、一生を費やしている人もいるだろう。
 ロボットというものが、本当に人間の役に立つものなのかどうかというのも怪しいもので。フランケンシュタイン症候群の問題だって潜んでいるのに、それを無視して、先に進むことはできないという意味で、
「つり橋の真ん中で右往左往」
作品名:城好きのマスター 作家名:森本晃次