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城好きのマスター

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「石垣や、濠の後などの、雑木林などを撮影した写真を載せても、それが目を引くとは思えない」
 ということで、少しでも、城に囲まれていたいという思いからも、店内に、天守の写真を飾っていたのだった。
「天守の屋上みたいでいいだろう?」
 とマスターは言っていたが、確かに、昔家族に連れていかれて、あまり興味がない状態で登った城の天守の最上階に、似たような写真が飾ってあったということだけは記憶にあったのだった。
 確かに、客の中には、城の写真を見上げて、じっと見つめるような客もいたが、そのほとんどは意識をすることもなかった。
 しかし、それらの客であっても、
「ここから、城の写真を別のものに変えたとすれば、どこか違和感があると思って、その変化に気づく人は、結構いると思うんだ」
 ということを、先代マスターは言っていた。
 その写真は、結構長くそこにあった。
 その写真が変わったのは、二代目店主が、城に興味を持ち、自分で撮ってきた写真と差し替えることになった時であり、かなり後のことだったのだ。
 これは、そんな先代マスターがまだ、後継者問題に直面する前のことであり、城廻が趣味だった、ある意味一番平和な時期のことだった。
 その頃になると、マスターは店で、自分のオリジナルメニューの開発をしていた。
 これは、マスターが、店の存続ということを考えてというよりも、城廻などの趣味ができたことで、自分の中で精神的に余裕ができたのだろう。
 そんな時、人間の精神状態というのは、結構きつい時を経験したこともあった思いがあり、
「気持ちに余裕がある時こそ、いろいろ動くことができる」
 というのを、無意識にでも感じているのだった。
「気持ちに余裕がない時というもは、何かをするのも恐ろしく、自分の殻に閉じこもってしまい、先に進むことを恐れてしまう」
 というものである。
 例えば、
「吊り橋のようなところがあり、風が吹いただけで、グラグラ揺れるというようなそんな場所では、高所恐怖症ではない人間であっても、恐ろしいにきまっていると言われるような場所に、高所恐怖症を自認している人間が、差し掛かってしまうとどうなるか?」
 ということである。
 怖いと思いながらも、
「下さえ見なければ、怖くない」
 という思いがあったとして、何とか途中まではいけるだろう。
 しかし、実際に進んでみると、次第に揺れははげしくなってくる。
「うわっ、これは怖い」
 と思って、今まで見ていた目の前にあったと思った橋の終わりである先にある目的地が、いつの間にか、遥か先に見えるのだ。
「だったら、来た道を戻るしかないのか?」
 と思って、動くことが困難だと思えるその場所から、何とか後ろ向きになって、今来た方向を見た。
 すると、
「あれ? 少ししか進んでいないと思ったのに、あんなに遠くに見える」
 というのだ。
 さっきまでは、意識することなく進んでいたので、想像以上に先まで来たということなのか、自分でも意識が、いや想像がうまくついていないようだった。
 ということは、今、いくのか、戻るのか、どっちがいいのかが分かっていない。
 どちらも遠くに見えていて、
「果てしない」
 といってもいいようで、その先に見えるはずのものが見えないというのは、平常時であれば、別に問題ないのだが、危機に陥った時、自分がいかに助かるかということが重要になっている時には分かるものではなかった。
 それでも、どちらかを選ばなければならない。
 普通に冷静に考えれば、
「戻るのが賢明だ」
 と思うだろう。
 なぜなら、この先、奥まで行って、今までいた世界に戻るのに、またこの橋を渡らなければいけないということであれば、
「それは、本末転倒なことである」
 と言えるのではないだろうか。
 そう思っていると、先まで行って戻ってくるだけの勇気は、二度と持てない気がする。それこそ、自殺を試みて失敗した人が、
「死ぬ勇気など、何度も持てるものではない」
 という重たい言葉のようではないだろうか。
 とにかく、
「死にたくない」
 という思いが最優先の危機的状況において、何をおいても、冷静にならなければいけないのだが、パニックに陥ると、フレーム問題が解決できなくなるというものだった。
 このフレーム問題というのはどういうことなのだろうか?
 それは、一般的に言われているのは、工学の分野での問題であり、限定することができるのだとすると、
「ロボット工学」
 ということになるのであった。

                 フレーム問題

「ロボット工学」
 というのは、文字通り、ロボット開発においての先駆的学問だといってもいいのだろうが、半世紀前くらいには、
「未来図」
 ということで、その未来がいつも未来なのかということは限定していなかったが、マンガなどでは、
「23世紀」
 あたりが、一番の候補だったりした。
 その頃になると、未来では、今までできなかったことができるようになり、一番の開発の目玉が、
「ロボット開発」
 というものと、
「タイムマシンの開発」
 というものであった。
 どちらも、もちろn、簡単な開発ではない。どちらが難しいのかという問題は、それぞれの専門開発の人でしか分からないが、
「なぜ、開発が難しいのか?」
 ということは、ある程度言われていることはあったのだ。
 タイムマシンなどでは、
「タイムパラドックス」
 という問題である。
 過去にいった時、自分の出生について、何か関わるとすれば、下手をすれば、その先の未来において、
「自分は生まれてこない」
 という、歴史を書き換えることになったとしよう。
 そうなると、
「自分が過去に行って、歴史を書き換えることをしない」
 という未来があるわけなので、従来通り、
「自分が生まれ落ちる」
 という未来が待っているのだ。
 そうなると、自分が過去に行って、自分が生まれてこない細工をする」
 という矛盾が、
「果たして繰り返されることになるのだろうか?」
 ということであった。
 つまり、
「永遠に抜け出すことのできないスパイラル」
 というものに陥ってしまって、戻ってこれないということになるのではないかということであった。
 そんなことを考えていると、
「未来というものから、果たして今を飛び越えて、過去にいってもいいものか?」
 ということになる。
 これらの問題が、
「タイムパラドックス」
 というものであった。
 しかし、別の考え方もあった。
 それが、
「パラレルワールド」
 という考え方であった。
 それは、
「生きている今は、一つではなく、別の世界が広がっている」
 と考え方だ。
「その世界は、別の次元ではなく。同じ世界線が、一つの過去を起点に広がっている。つまり可能性の問題で、今を現在とすれば、次の瞬間には、無数の可能性が広がっているというものである。次の瞬間には、またそこから無数の可能性、果てしなさが、目の前だけではなく、横にも広がっていくということであり、それを、前しか見ない人間には、気付くものではない」
 という考え方だといってもいいだろう。
 それが、
「パラレルワールド」
作品名:城好きのマスター 作家名:森本晃次