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城好きのマスター

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 だが、中に残ることになった場所も、いずれ発足する、軍にその土地を徴用されるということで、城内部に、軍隊の司令部が置かれることで、廃城を免れるということもあったようだ。
 しかし、
「コンビニの数よりも多い」
 と言われて、日本の城が、跡形もなくなくなってしまったのも事実であり、遺構として、石垣の一部や、天守台などがあるくらいで、ほとんどが姿を消した。
 中には、岡山県高梁市にある、
「天空の城」
 と言われる
「備中松山城」
 のように、庶民が、
「すてに取り壊した」
 というウソをついて、新政府の目をごまかしたとされるところもあったのだ。
 そして、ほとんど全国でも現存する城というものが、ほぼなくなったところに追い打ちをかけたのが、あの
「大東亜戦争」
 であった。
 米軍による、カーチスルメイという男の発案による、日本本土への、
「無差別爆撃」
 が原因であった。
 普通なら、
「軍需工場や、軍の施設に対してのピンポイント爆撃」
 というのが、常識だったのだが、日本軍、さらには、民間人による徹底抗戦や、対空砲火などによって、
「ピンポイント爆撃では、成果のわりに、米軍が被る被害の方がはるかに大きい」
 ということで、米軍は、
「自軍の被害を何とか最小限にとどめ、さらに、戦争を速やかに終わらせる」
 ということを言い訳にして、日本本土への無差別爆撃を行ったのだ。
 その際に用いられた兵器が、
「日本家屋を、焼き尽くす」
 ということを目的に作られた、特殊焼夷弾、いわゆる、
「ナパーム爆弾」
 というものだった。
 ナパームというものは、普通の火薬と違って、一度火がついてしまうと、水で消すことはできない。
 だから、日本で空襲訓練として行われていた、
「バケツリレー」
 というものも、実際にはムダなものだったといってもいいだろう。
 そして、その成果をもっとも、顕著に表したのが、昭和20年3月10日未明からの、
「東京大急襲」
 であった。
 東京大空襲というのは、下町を焼き尽くすというもので、その周りに隅田川があった。
 隅田川内部からと、外部からの二面作戦で、逃げる人々を、隅田川に追い込むようにして、橋の上の、追い込むことにした。
 人々は、急いで川に飛び込んで、火から逃れようとしたという。しかし、ナパームの威力は、水では消えないのだ。
 水の上を火が走るようにして、消えずに燃えているのだ。
 川に飛び込んだ人は、顔を沈めたままだと窒息するので顔を挙げると、火が、水の上を走るように迫ってくる。
「窒息するか、火に巻き込まれるか」
 という二者択一で、
「死を待つしかなかった」
 という結末が、東京大空襲だったのだ。
 一晩で、10万人近い人がなくなったというのは、本当に悲惨なことだった。広島に投下された原爆でのその日の被害者は、死者七万だったということを考えても、東京空襲がとういうものだったのかというのは、想像を絶するものがあるだろう。
 確かに、原爆という核兵器は許せるものではないが、各都市を襲ったカーチスルメイによる無差別爆撃というのは、
「人を人とは思わない」
 という点においても、その罪の深さは、人類の歴史が続いていく中で、決して許されることではないといえるのだった。
 無差別爆撃というのだから、当然、容赦などというものはない。積んできた爆弾を、B29は、ただ、落とすだけだったのだ。
 だから、日本全土が爆撃対象で、
「城などの文化財が守られる」
 などということがあるわけもなく、歴史的な象徴ともいうべき城郭も、完全に破壊されたものが多かった。
 名古屋城などもその一つで、空爆で焼失したのだ。
 さらに、広島城などは、爆心地から、少ししか離れていないということもあって、完全に焼失してしまった。
 元々、米軍が広島をターゲットにした理由は、
「原爆の効果を確かめるのにちょうどいい」
「それまで、ほとんど空襲もなく、無傷状態であった」
 というのも、その理由であった。
 特に後者のせいで、
「広島市は空襲がない」
 と言われ、広島に租界してくる人もいたくらいだった。
 ただ、それは、原爆の効果を研究するということでの事後にむけての理由だったのだが、もう一つ大きな理由があった。
 これは、政治的な思惑と言ってもいいもので、その理由というのが、
「日本において、最初の大本営が築かれた」
 というものだった。
 それは日本においての最初の対外戦争である、
「日清戦争」
 を始めるにあたって、軍部の幕府ともいえる、総司令部を、その立地として、広島が選ばれたのだ。
 軍部における最高司令官は天皇なので、この時だけは、首都機能を、広島に移し、
「仮の首都」
 として置かれた場所であり、天皇も広島において、戦争を指揮したと言われる。
 その天皇というのは、明治天皇で、明治天皇は、その力を広島にて起こすことになったのだ。
 米軍はそれを分かっていて、日本人にとっての神的存在である天皇が大本営を最初に作った広島城内の破壊が目的だったのだともいえる。
 かくして、広島は一瞬にして、破壊され、当然のごとく広島城は跡形もなかったに違いない。
 結局、城はほぼ壊滅状態となった。
 戦争を経て、日本は敗戦国となり、
「焦土からの復活」
 ということになったのだが、最初の10年くらいは、街の復興ということで大変な混乱があったのだが、昭和30年代に入り、徐々に経済も持ち直してくると、
「焼失した城の復興」
 というのも進められるようになった。
 そもそも、江戸時代以前に作られた城が、その後、焼失や廃城令に引っかかることなく、空襲を逃れた城ということで、天守というものに限って言われているものが、
「現存天守」
 と呼ばれるもので、その数は、12しかないのだ。
 それを、
「現存十二天守」
 と呼ばれている。
 南から、
「伊予松山城、宇和島城、高知城、丸亀城、松江城、備中松山城、姫路城、彦根城、松本城、丸岡城、犬山城、弘前城」
 の12の城であった。
 特に空襲を受けながらも焼失を免れた、
「姫路城や伊予松山城」
 であったり、前述のように、廃城令の際に、
「取り壊した」
 といってウソをつき、現存することになった、
「備中松山城」
 などは実に重要な城だといってもいいだろう。
 特にこの中で県庁所在地となっている、
「松山、高知、松江」
 などが、空襲の戦禍を免れたというのは、ある意味奇跡なのかも知れない。
 そんな残った天守であるが、どうも日本人は前述のように、城というと、
「天守があるものだ」
 という認識であったり、
「どこが現存で、どこが建て直した城なのか?」
 ということも分かっていないということが、問題となるのだった。
 ほとんどの人が、
「生活に関係ない」
 ということで、興味のないことなのかも知れないが、
「せっかく日本にいて、城郭という他国に類を見ない、日本固有の文化があるのだから、もっと知っていてもいいのではないか?」
 と、初代マスターは言っていたのだ。
 とはいえ、どうしても、目を引くのが天守であり、
「天守の絢爛豪華さでなければ絵にはならない」
 そして、店に飾る写真として、
作品名:城好きのマスター 作家名:森本晃次