タバコと毒と記憶喪失
確かに記憶というものがないと、今までの自分が分からないということで、他の人とのコミュニケーションがうまくいかない。いくら、意識として、反射的なものは分かっても、まわりがついてこれないということになるだろう。
ただ、それでも、
「意識さえしっかりしていれば、記憶というものは消えるものではなく、封印されるものなので、何かのタイミングで戻ってくるという可能性は十分にあります。しかし、それがいつなのかは分かりません。1年後なのか、10年後なのか、明日なのかも知れない。それだけに、寄り添う人の神経もかなりすり減らされることになると思うんですよ。今はあの人の身元が分かっていないので何とも言えないですが、家族が見つかって、無事だということが分かり、安堵したとしても、次の瞬間には、奈落の底に叩き落されるということになる。それを思うと、私は胸が熱くなりますね」
と、医者は話していた。
それは、三浦刑事も同じことで、彼が警官時代に、同じように記憶喪失になった人がいたのを思い出した。
その人は交通事故だったのだが、飲酒運転だった。
「俺って、どうして交通事故関係で、いつもこんな悲惨な状況に立ち会うことになるんだろう」
と感じたものだった。
しかし、それは仕方のないことで、やるせない気持ちを持ちながらも、警察官を続けなければいけないことに、憤りを覚えなければいけなかった。
そういう意味で、今回の事件も、被害者が記憶喪失だと聞いた時、
「またかよ」
と嫌な気分になったのも確かだった。
しかも、この男が同情の余地のないというほどの気がする相手だから、余計であった。
何を言っているのか、少し聞いてみた。
「タバコ……、毒……、記憶喪失……」
と繰り返していた。
「何だ? 今の自分に起こっていることを分かって言っているのか?」
と思った。
確かに、
「吸ってはいけないところで喫煙をしていた」
そして、
「毒が身体に回っている」
さらに、
「記憶喪失になってしまった」
ということを、時系列で呟いているではないか。
しかし、よく考えてみると、これは、
「ニワトリが先かタマゴが先か」
という禅問答と同じで、今聞き始めたから、この順番だと思うのだが、実際には何が順番なのか分からない。
そのことを、まだこの時の三浦刑事には分からなかったのだ。
事件というものが、どのように進展するかというのは、
「必ずしも時系列通りだとは限らない」
と以前立ち合った事件で感じたのをその時、失念していたのだった。
とりあえず、男が呟いているのは、この3つの言葉であった。
三つというと、もう一つ思い浮かぶのは、
「三すくみ」
という言葉であった。
「ヘビはカエルを飲み込むが、カエルはナメクジに食べてしまう。しかし、ナメクジは、ヘビを溶かしてしまう」
ということで、お互いにけん制し合うことで、均衡を保っていることを、
「三すくみ」
というのである。
「その三つが、何やら三すくみになっているのではないか?」
そう感じたのは、彼が記憶喪失になっていて、意識で呟いていると感じたからだ。
「自分が記憶喪失になっていながら、記憶喪失という言葉を言うということは、記憶があった時期に、その言葉が印象に残ったということだろう」
と感じた三浦刑事は、記憶喪失という言葉が記憶の奥にも封印されていて、意識の中の記憶喪失と葛藤していて、そこから言葉が生まれてくるのではないかと感じたのだった。
被害者の身元を調べていると、ふとしたところから身元が分かってきた。
というのは、行方不明者の中で、一人科学者がいたのだが、その科学者の先生を探しているということで、捜索願を申し出たのが、息子だったのだ。
そして、その捜索願と申し出てから、ずっと定期的にその様子を聴きにきていた息子というのが、最近、忽然とこなくなったということであった。
普通警察は、事件性がないと捜査はしないが、息子がいうには、
「親父を急いで探してください。どうやら、変な組織に誘拐され、よからぬ研究をさせられているんです。その研究のキーワードとして、毒薬、記憶喪失、タバコというものが机の上のノートに書かれて置かれていたんです」
という具体例を話した。
警察は普段は、聴く耳を持たないが、相手が科学者で、
「毒」
という言葉があることから、捜索に乗り出したのだが、相手の組織がかなり強力なのか、普通なら、もう少し調べれば分かりそうなことですら、まったく分からない状態になるのだった。
そんな時、息子が来なくなった。気になって行ってみると、どうやら息子も行方不明のようだ。親子ともども行方不明。さすがに警察も捜査に乗り出した。しかも、その消息は忽然と消えている。意識的に存在を消されたかのようである。
それこそ、
「記憶喪失ではないか?」
と思えるほどで、一部の記憶を操作できるような、そんな感じであった。
「やはり、科学者という父親が絡んでいるんでしょうか?」
というと、
「大いに考えられるな。ちょっと非現実的ではあるが、親子ともども失踪したということであれば、さすがに放っておくわけにもいくまい」
ということであった。
そこに通りかかった三浦刑事、息子の話を聴いて、
「まさか」
と思ったのだ。
そこで、息子の顔を知っている捜査員とともに、病院に赴くと、
「ああ、彼が科学者の息子ですね。記憶喪失なんですか?」
と三浦刑事に聞くと、
「そのようですね、そして、毎日の口癖が、タバコ、毒薬、記憶喪失なんですよ」
という。
三浦刑事が、いきさつを話すと、捜査員は、
「彼が、そんなところでタバコを吸うなど考えられませんね。何かの脅迫でも受けて、わざとしたのではないでしょうか? しかもそれを誰かに見せて、彼が天罰を受けたとでも思わせたかったのかな?」
ということであったが、
「それは少し考えにくいですね。実際に彼は記憶を失ってはいるが、死んではいない。何かの人体実験のようにも思える。父親が絡んでいて、ひょっとすると、悪の組織の存在を何とか警察に知らせて、この状況を何とかしてほしいと思ったのかも知れないですね」
というと、
「そうなんですよ。我々も、その危惧があったので、父親を捜していたんですが、息子まで行方不明ということで、いよいよ怪しいと思ったんですよ。もし三浦刑事の想像が当たっていれば、これは、父親がくれたチャンスということになりますね」
と言われて、三浦刑事は、昔に見た特撮映画を思い出していた。
「そういえば、あの時、宇宙怪物を地球外に送り出す発想をした老科学者は、宇宙船に乗っていて、墜落した船の宇宙飛行士だった人の父親だったよな」
ということであった。
偶然なのかも知れないが、数十年経ってから、親子という関係で、
「悪に立ち向かう」
という発想が受け継がれているような気がして、三浦刑事は、不思議な気持ちになっていた。
作品名:タバコと毒と記憶喪失 作家名:森本晃次