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タバコと毒と記憶喪失

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 ただ、吸血鬼の場合は、
「人間の血を吸わないと、生きていけない」
 という設定なのだとすれば、依存症というのは、気の毒であろう。
 人間だって、生きるために、動物の肉を食らったり、植物を食したりする。それは、別に依存症とは言われない。いわゆる、
「生態系」
 と言われる、
「自然の摂理だ」
 といってもいいだろう。
 依存症の人は、基本的に、
「自覚がない」
 という人が多いだろうから、
「依存症ではない」
 というだけの理屈をつけることはできると思う。しかし、問題は、
「その理屈を理解してもらえるかどうか?」
 ということであろう。
 そんなことを考えていると、
「依存症と呼ばれる人は、自分で依存症だという意識がない人がほとんどだ」
 と言えるであろう。
 依存症の人が、
「自分を依存症だ」
 と思えば、その防ぎようは、自分で気づく人もいるだろう、
 そういう意味でいえば、
「自覚のある人の方が、まだ、手の施しようがある」
 というものだ。
 ただ、こういう言い方をすれば、
「手の施しようって、まるで、末期の患者のようではないか?」
 と、こちらが失礼なことを言っているように言われるが、そう思うと、少し違和感があるのだ。
 というのも、
「ここで食って掛かるということは、本当に依存症だという意識がないのか?」
 ということであった。
 というのは、意識していないから、
「自分は違うんだ」
 と思っているのかも知れないと思っていたが、実際には違うのかも知れない。
「自分は違う」
 ということで、むきになるのは、
「何に自分が違うのかということを分かって言っているのだろうか?」
 というのは、
「自分が、依存症ではない」
 ということになのか、それとも、
「自分が依存症を意識していない」
 ということになのかということが問題である。
 依存症だということ自体にムキになるのは、
「依存症というものを知っているが、自分とは関係のない世界のことだ」
 と考えている人だろう。
 しかし、
「依存症を意識していない」
 ということに関してムキになっているのは、
「自分は依存症ではない」
 ということをまず最初に訴えたい、依存症を知っているか知らないかというのは、別問題だと考えている人が思うことではないだろうか。
依存症を意識しないという方が、直接的にかかわっているような気がして、怖い気がする。
「どちらが末期に近いか?」
 と言われれば、
「意識していない」
 という人の方ではないか?
 と、三浦刑事は思うのだった。
 今回の事件で、
「毒薬を盛られたかも知れない」
 と言われ、さらに、通報者の話として、
「被害者は、よろよろよろめいて、倒れた」
 というのを聞いた時、思わず、
「薬物依存症」
 の人間を思い浮かべた。
 ただ、同じ依存症でも、あの男は、タバコ依存症だったようだ。
「城址公園の、しかも、重要文化財の真下で、タバコに火をつけるなんて、何というやつなんだ」
 と、依存症ではない人間だから思うことである。
 しかし、依存症という意識がないからこそ、タバコを吸っているところを誰かに見られたとしても、それを意識することはないのだろう。
 ある意味、三浦刑事が考えるところの、
「末期患者だ」
 といってもいいだろう。
「依存症というのは、がんのようなもので、人に迷惑を掛けても気にならないものは、死ななきゃ治らないということになるのだろう」
 と思うのだった。

                 大団円

 今回の被害者が、毒を盛られて、さらに記憶喪失になっているという。
 三浦刑事は、どこか複雑な気持ちになっていた。
 本来であれば、
「勧善懲悪」
 な性格なのだから、
「犯人が憎い」
 という思いが一番に来るのだが、今回は、さほど乗り気ではないのだ。
 というのも、この男が、
「重要文化財の下で、平気でタバコを吸っていた」
 という事実を聴き、実際に、写真を見せられたからである。
「果たして、こんなやつが庇われてもいいのだろうか?」
 という思うと、
「こんなやつは、死ねばよかったんだ」
 という、決して表に出せない葛藤が、三浦刑事の中にあった。
 確かに警察官なのだから、法律に従って行動し、法律の範囲で捜査権が与えられているということなので、犯人逮捕が最優先であり、個人的な感情は、決して表に出してはいけないものである。
 しかし、刑事だって人間である。捜査をしていて、
「これは、犯人が悪いのではなく、心情としては、犯人に同情したくなるくらいのものだ」
 ということが何度もあった。
 そのたびに、
「俺の勧善懲悪の考えって一体何なんだ?」
 と感じることであった。
 だから、勧善懲悪が必ずしも正しいというわけではなく、しかも、犯人に同情するのもありなのではないかと思うこともあった。
 そのたびに、自己嫌悪に陥り、捜査中であっても、いきなり人間が変わってしまうこともあった。
 それでも桜井警部補は、前々から、そんな感情を知ったうえで、三浦刑事を引き立ててくれていたのだ。
 桜井警部補に相談してみたこともあった。
「僕は、勧善懲悪をモットーにして警察官になったのに、その矛盾やギャップに苦しめられるような気がするんですよ」
 といって、勧善懲悪についての話をしたこともあったくらいだった。
「三浦君は、考えすぎるだろうな。だけど、考えすぎることが悪いわけではない。自分で考えて考えて、それが身についてくれば、考えることの意義が自分で分かってくるようになるものさ。だから、どこまで考えればいいかという線引きが分かってくるようになると、引き際というものが分かっている」
 と桜井警部補は言っていた。
「引き際ですか?」
 と聞くと、
「ああ、そうだ、引き際というのは、いつ辞めるかということで、特に戦争などもそうだろう? 完全勝利が望めないのであれば、自分を絶えず有利な立場に持っていって、その時々の判断で、いわゆる一番いい時に、相手と一番いい状態で和平交渉をするというものだ」
 という話をしてくれた。
「ああ、そういうことですね」
 と、三浦刑事は納得した。
 桜井警部補とすれば、
「思ったよりも難しい話をしたつもりなのに、三浦君はよくわかっているな」
 と感じた。
 こんな話をしていると、この言葉で少し気が楽になってきたのか、それ以上、悩むことがないと思ったのか、
「ありがとうございました。何かスッキリした気がします」
 と言った。
 その思いに間違いはなく。引き際というものを理解できたような気がしてきたのであった。
 記憶喪失になった人間に何を聴いても答えるわけはないが、とりあえず、聴きに行ってみた。
 こちらが何かを聴いても答えようとはしないのだが、何かをしきりに呟いているのだった。
 こちらの話が通じないというのは、何となく分かっていたが、分からないということがどういうことなのか分かってもいないはずなのに、何を呟いているのか、きっと、
「記憶としては残っていないが、意識として残っている」
 ということではないだろうか?
作品名:タバコと毒と記憶喪失 作家名:森本晃次