タバコと毒と記憶喪失
三浦刑事は、気を遣いすぎて。胃が痛くなることもあるのだが、逆に、一つ突破口が開けると、そこからは、極端に楽天的にものを考えるようになり、えてしてそれがいい方に作用するのか、本当に事件が、電光石火で解決するということになることも往々にしてあったのだ。
ただ、今は相変わらずの、
「五里霧中」
と言った状況だった。
「とりあえず、被害者の様子だけ見させてもらってもいいですか?」
と三浦刑事は、医者に話し、医者も、無言でうなずいた。
「一目瞭然です」
と言いたげであったのだ。
三浦刑事は、医者にしたがって、進んでいくと、病室は集中治療室から、個室に移されていた。
そこは、さほどは広くはないが、一人部屋で、他の人と関わるのは、まだ早いとでもいっているように思うと、
「まるで独房だ」
と、刑務所の独房を想像すると、どこかやるせない気持ちになる三浦刑事であった。
「三浦刑事は、記憶喪失の人を相手されたことはありますか?」
と医者に言われ、
「ええ、交通事故に遭って、少しの間記憶が飛んでしまった被害者を見たことがありました。私は交番勤務だったので、その人のことを絶えず気にかけていたのを覚えています」
と言った。
その時の被害者は、高校生の女の子で、ひき逃げだった。しばらくしてから、容疑者が名乗り出てきたのだが、容疑者も未成年で、無免許の上に、酒気帯び運転だったという。
最初は、
「無免許だったので」
と、ひき逃げをしてしまったことを言い訳にしていたが、裏付け捜査をすると、事件が起こる1時間前まで、近くの居酒屋で酒を呑んでいたことが判明した。
三浦巡査は、
「そんなに簡単にバレるようなウソを、よくもぬけぬけと言えたものだ」
ということで、自分の中にある、
「勧善懲悪」
というものが顔を出したのであった。
「お前、よくそんなウソがつけたものだな」
といって、刑事が怒りという名の憤りを、隠すことなく容疑者にぶつけている。
この容疑者の身元は、どこかの会社社長の息子で、いわゆる、
「御曹司」
といってもいいやつだった。
しかも、顔が端正に作られているので、女にもモテたようだ。
それはそうだろう。金もあって、いい男というような容姿をしていれば、女が勝手に寄ってくるというのも、太古の昔から変わっていないことであろう。
しかし、表の顔とは裏腹に、その実態は、悪魔の形相を裏に隠し持った。文字通りの悪魔だといってもいいだろう。
警察の捜査をいいことに、さっさと金を積んで示談にしようという動きがあったようだが、それも、彼女の意識が戻ってから、親が面会すると、彼女は完全に記憶を失っていて、親のことも分からなければ、自分の名前も分からない。ずっと夢遊病のように、
「どこを見ているのか分からない」
という様子に、家族は、
「お前一体、どうしちまったんだよ」
と泣いてすがっていたのだ。
それを見たまわりの人たちも、貰い泣きの状態で、三浦巡査も、目頭が熱くなるのを感じていた。
「こんな犯人は、決して許してはいけないんだ」
ということで、親の方も、娘の変わり果てた姿を見ることで、最初は示談で、
「何とか娘に速く立ち直ってもらおう」
と思っていたのだが、
「もう、そんなことを言ってはいられない」
と思ったのだ。
もし、これが即死でもしていれば、また違った感覚なのだろうが、
「せっかく意識が戻ったというのに、いつまで記憶を失ったままでいるのか、分からないというのは、これほど辛いことはない。我々は記憶が戻るまで、ずっと記憶のない娘と向き合っていかなければいけないんだ」
と思ったことで、
「示談はしない。断固裁判を起こす」
ということで、刑事と民事の両方で裁判を起こしたのだった。
刑事の方は、基本的に警察と検察の方で行うので、
「示談」
というものを受け入れなければ、自動的に検察の判断に委ねられる。
「今回の事件は、起訴するに十分な内容なので、示談でなければ、我々は、ひき逃げ事案として告訴します」
ということであった。
問題は、
「被害者が死んでいない」
ということと、
「死んではいないが、記憶喪失である」
ということがいかに影響してくるかということであった。
ただ、一番悪質なこととして、
「飲酒運転を隠すために、ひき逃げをした」
ということであった。
そこを裁判がいかに判断するかということであったが、実際に出た判決は、執行猶予付きのものであり、何とか、被害者側も容認できるものであった。
ただ、それよりも被害者側がホッと胸を撫で下ろしたのは、判決が、検察の求刑に対して、
「それほどの差がなかった」
ということであった。
つまりは、裁判官や、裁判員が、
「犯人に対して、情状酌量の余地はない」
と考えたからだろう。
主文としても、
「非道なる身勝手な犯行」
という、最大限の罵倒を被告に示していることでもよく分かる。
民事の方でも、弁護士が優秀だったこともあり、しかも相手が金持ちで、向こうも、
「執行猶予がついたことで、早く事件のことを忘れたい」
と思っていたのか、さしたる問題もなく、被害者側の要求が、ほぼ全面的に認められたことだった。
ただ、被害者側の家族が言っていたことが印象的だったのだが、
「今回はあいつは、あまり重い罪に問われず、執行猶予がついたことで、表面上は反省しているように見えるけど、ああいうやつは、また同じような事件を繰り返すんですよ。被害者は我々だけにしてもらいたいものだ」
と吐き捨てるように言っていたのを思いだした。
三浦刑事は、この時の事件で、その時の父親の表情と、尋問している時の、犯人のふてぶてしい表情だけは忘れられないように思えたのだった。
実際に、この時の父親が予言したように、本当にあの時の犯人は、またしても犯罪を犯して取り調べを受けることになった。
その時は、すでに三浦は刑事になっていたので、自分が取り調べを行うことになったのだが、昔のあのふてぶてしい表情を思い出すと、取調室で取り調べをしている状況は、
「まるでデジャブのようだった」
と思えてならなかったのだ。
その時の犯行は、
「傷害事件」
であった。
場末のスナックから、
「喧嘩している人がいる」
ということで行ってみると、見覚えのある男が、これまた見覚えのある、ある意味、
「思いだしたくもない表情」
を浮かべて、手にはナイフが握られていた。
ところどころ赤いものが飛び散っていたので、すでに、そのナイフは使用済みであることは明らかだった。
刑事としては、
「もうこれ以上の惨劇を大きくしないようにする」
というのが急務であり、暴れている男を取り押さえて、警察に連行してきたのだ。
被害者の方は、普通のサラリーマンであり、
作品名:タバコと毒と記憶喪失 作家名:森本晃次