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タバコと毒と記憶喪失

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 最初に県庁所在地を決めた時からのことのようで、
「県庁所在地の市の名前を何にするか?」
 ということで、明治の頃にもめたという。
 候補は2つあり、2択だったのだが、それだけに意見が真っ二つに割れてしまい、市だけでは混乱するだけで、収拾がつかなくなった。
 そこで、県が乗り出してきて、県の仲介の下に、今の、
「F市」
 というものが成立した。
 その時のF県の功績は、F市内部でも、恩に着るところがあったのだが、それは、その時代の勢力が現存していた時代までだった。
 代替わりが行われ、市制30周年くらいには、それまで結構市制に口を出してきた県に対し、
「鬱陶しいな」
 と思うようになってきた。
 かといって、一気に遠ざけるとわだかまりが露骨になり、本当に助けが必要な時、今度は助けてくれないなどということになると、本末転倒となってしまう。それを思うと、何とか、県の信頼をつなぎとめておく必要があったのだ。
 それでも、お互いのわだかまりと、お互いがけん制し合うことで、いろいろな弊害ができていたのだ。
「内濠内が、市の管轄で、外堀から躁が前までが県の管轄」
 というような、元々が城址として一つのはずなのに、2つの自治体がそれぞれ管轄するなど、あまり見られることではない。
 ただ、今の時代は、市と県でいろいろ争っているのも散見される。
 特に、今回の
「世界的なパンデミック」
 においては、
「基本的に、事態を見極めるのは、各都道府県の知事であり、彼らが、蔓延と判断すれば、国に、緊急事態宣言であったり、蔓延防止の指令を出してもらう。さらに、解除の際も、都道府県からの申請で、国が解除の判断をする」
 ということになっている。
 ただ、緊急事態宣言の場合は、
「県内すべてにおいて、一律に制限」
 ということであるが、その前段階になる、
「マンボウいわゆる、蔓延防止措置の方は、一律ではなく、場所を指定することができるのだが、その判断をするのは、各都道府県」
 ということになるのだ。
 だから、マンボウの場合に、県は市に対して、配慮する形になり、市は県に対して、優遇してもらうように働きかけようというのだ。
 ただ、その判断は結構難しい。
 経済を優先するなら、緩めの判断を行い、地域もなるべく限定し、営業形態も相当制限することになるのだろうが、今度はそれが原因で、さらに蔓延し、最悪、
「医療崩壊」
 など起こしてしまっては、市に任せた県とすれば、その面目は丸つぶれである。
 そうなると、もう県に対して頭が上がらなくなり、市制も、ほとんどが、県による監視下に置かれるなどということになると、
「我々の存在意義すら疑われることになる」
 ともいえるだろう。
 F県ほどの規模のところでは、そこまではないのだろうが、これが、大阪や京都のような、
「府」
 というものであれば、そこから叫ばれるのは、
「都抗争」
 という発想であろう。

                 正直者がバカを見る

 数年前まで、大阪では、
「大阪都抗争」
 という問題が叫ばれていた。
 最近では、パンデミックによって、そこまで言われなくなったが、
「県民投票」
 などが行われ、結構ヒートアップしていた時期があったのを記憶している。
 確か、賛成派と反対派の票が拮抗していたのではなかっただろうか?
 ただ、それこそパンデミックのせいで、どこまでの票だったのかということが記憶から崩れ落ちて、尻すぼみになってきたので、覚えていない。
 ただ、F県民にとっては、
「対岸の火事」
 というわけにはいかないだろう。
 確かに、大阪などから比べれば、まだまだ小さな県ではあったが、それでも、地方としては最大の県であり、県庁所在地もダントツの一位であった。アメリカにおける
「ロスアンゼルス」
 くらいの存在ではないかと言えるのではないだろうか?
 そんなF市であったが、市民のほとんどは、
「都抗争なんかまったく無意味なことだ」
 と思っているようだった。
「行政側がやりやすくなるだけで、俺たちに果たしてメリットなんかあるのか?」
 というのが、その発想であった。
 これまでも、市制の中でうまく回ってきたという自負があり、いくらパンデミックによって疲弊しているとはいえ、ここで県にまたしても介入されると、
「今度は、引っ掻き回されるだけでは済まなくなるのではないか?」
 と考えているようだった。
 その考えは、市側の商工会議所の中に多いようで、
「過去の歴史を見てみると、県と市が抗争を繰り返している時は、俺たちはどうすることもできず、その分、衰退していく業種が出てくるだけだった」
 ということを分かっているからだったのだ。
 今回のパンデミックというものをいかに乗り越えるかというだけではなく、県の動向も見守らなければいけないという市の難しさもあった。
 そんな中において、今回の
「中央公園計画」
 というのは、ある意味、
「これまでの確執を忘れる形で、将来において、県と市を仲良くさせる絶好のチャンスではないか」
 と言われるものであった。
 そんなこともあって、
「どちらにも、損がなく、特に県側には、大いに特になる」
 ということで、県も乗り気になっているのであった。
 ここで、成果を出しておけば、今後、国との交渉があった時、
「国も優遇してくれるのではないか?」
 という考えであったが、少々甘い気はするが、国としても、このパンデミックの中において、47都道府県すべてを網羅することなど不可能なのだ。
 特に、マンボウなどの発出になると、県だけを把握するのも難しいのに、実際に県内の中での地域選定を国ができるわけもなく、県に頼るしかない。そうなると、国もしっかりした県であれば、任せることもできるということで、安心するに違いない。
 県もそこで国に、
「恩」
 を売っておけば、逆にそれを手助けしてくれる市との間のわだかまりなどないに越したことはないと気づくであろう。
 この理屈は小学生にでも分かることである。
 しかし、小学生だからといって、どこまで理解できるのかということは、難しく、ただ、
「小学生でも分かる理屈」
 という言葉だけが独り歩きをしてしまうと、市の面目を保つことが却って難しいのではないかと思えるのだった。
 そんなところで、
「中央公園計画」
 を、国も注視していた。
 県は、国が注視しているということを知ってか知らずか、目線は市にしか向いていない。市の方も県しか向いていないように思えたが、実は、市の方からちょっとしたアプローチが国にあったのだ。
 露骨にやっても、国が、
「市ごとき」
 に反応するとは思えない。
 特に、問題となることであれば、その警戒が強いだろう。だから、あくまでも、国を立てて、国が気持ちよく聞けるような体制にしておいて、ゆっくりと話に入っていく。そうすれば、国も、
「市ごときの相手をしている」
 と意識させることなく、県に対しての目線を送ることができるからだ。
 だから、国は県に対して、一定の好奇心を持って見ていることだろう。
 何かがあったとしても、国が介入することはないだろうが、いざという時、特に、
作品名:タバコと毒と記憶喪失 作家名:森本晃次