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一毒二役

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「来るべく戦」
 に備えていたのだった。
 そんな戦の時期が整って、いよいよ戦という時、本来であれば、
「豊臣の家臣」
 という立場の家康だったが、それを三成挙兵の報を受け、家族の身を憂いている武将たちの気持ちを一つにして、家康の配下として働かせるための調略活動に一役を買ったのが、この息子の武将だったのだ。
 そのおかげで、関ヶ原において勝利を収めることのできた家康から、この地への転封であったが、今でいえば、
「栄転」
 といってもいいことだろう。
 そして、この地に入った初代藩主は、さっそく、街の中心に城を構え、ここで、この地を統治することになったのだった。
 実際の層が前は、結構広いものだった。
 前述の、
「大きな池を中心にした公園」
 さらに、
「球技場を要する、丘のようになった場所」
 とがすべて、外堀の中だったという巨大な、城下町が広がっていたのだ。
 それが、
「攻め込むには困難なところ」
 と言われる、一番のところであったのだろう。
 それにしても、遺構がほとんど残っていないというのは、時代の流れからかしょうがないことであるのかも知れないが、結果として、石垣などは残っているので、
「城址公園」
 としては、立派なものだといってもいいだろう。
 それでも、遺構が少ないというのは、
「県や市が再建する意志がないということだろうか?」
 というのもあれば、
「発掘調査の中で、戦国時代よりもさらに昔の資料が見つかった」
 というのも一つなのかも知れない。
「下手に城を復元してしまうと、さらに古い時代の発掘の邪魔になってしまう」
 という歴史的、考古学的観点があるのも事実であろう。
 しかし、天守について、
「最初からなかった」
 あるいは、
「一国一城令」
 ということへの配慮として、天守を壊し、
「謀反の心がない」
 ということを示す必要があった。
 ということを示さなければならないのであった。
 だから、天守が現存していないのだろうが、江戸時代の、家康時代以降にも、
「天守の存続の傷害となる」
 というものがたびたびあったのである。
 まずは明治と時代が変わってから、
「武士の時代から、天皇中心の中央集権国家」
 つまりは、
「立憲君主の国」
 として世界に台頭してきた中で、まるで、
「武士の象徴」
 ともいえる、城や城下町というのは、明治政府にとっては、
「邪魔者以外の何者でもない」
 ということになるのだった。
 だから、明治の初期には、
「武家制度の負の遺産ともいえるものは、その風習から象徴まで、一気になくしていくというのが急務だったのだ」
 ということで、いろいろな令が出された。
「廃藩置県」
「廃刀令」
 などが、代表例である。
「武士の命」
 ともいえる刀を廃することで、
「この世から、武士というものは、消えてなくなるしかない」
 ということになり、さらに、
「時代遅れの戦を象徴するかのような城もいらない」
 ということで出た法律が、
「廃城令」
 だったのだ。
 文化遺産としてというよりも、その後にできた、
「軍の施設」
 という意味合いから残された城というのもいくつかあっただろう。
 そういう意味で、F城も建物は壊されたが、そこに、軍の建物が建ち並ぶということは、F城に限らずあったことであり、F城も、軍の建物が結構あったということである。
 その跡地に建てられたのが、いくつもの競技場であり、内堀から外の部分が、
「池を中心に整備された公園」
 だったのである。
 実際の内堀内部の軍部施設は、すでに跡形もなく消え去っており、今の時代は、競技場も郊外に新しいものができてきたので、内堀内にあった競技場は姿を消しつつある。
 そして、新たに競技場部分が整備され、さらに、公園と、発掘場所に分けられることで、隣の濠を模した公園と一緒になり、
「中央公園構想」
 なるプロジェクトが、今から十数年前に発足し、動き始めていた。
 ただ、その構想が実を結ぶのはいつのことだろう。
 正直にいって、
「この県あるいは、県庁所在地である市においては、その行動はまるでカメのごとしだといってもいいだろう」
 と言われていた。
 実際に、プロジェクト時代は、10年以上前から動き出していたにも関わらず、市民、県民が知ったのは、ごく最近だった。
 緘口令が敷かれていて、水面下で動いていたのか、それとも、マスゴミ自体が知らなかったということなのか、おかしな時代となっていたのだった。
 これは、県下において唯一の私鉄である、N鉄という会社にも同じことが言えるようだった。
「F市は、N鉄には頭が上がらない」
 ということは、昔から言われていた、
「公然の秘密」
 だった。
 県下では唯一の私鉄であり、いろいろな副業があることからも、
「地元では、ずば抜けて権力のある企業」
 として長年君臨してきたところであった。
 ちなみに、以前ここを本拠地とし、あっさり身売りに出した地元企業というのは、この会社のことだったのだ。
「儲からなければ、簡単に切る」
 という、血も涙もない企業である。
 もっとも、それくらいの潔さがなければ、
「地元の有」
 として君臨できるわけもなく、まさに、
「網元」
 といってもいいところだった。
 そんな企業には、自治体だって、逆らうことはできない。ここを敵に回してしまうと、市長選、県知事選の票に響くというものだ。
 県知事であっても、市長であっても、しょせんは、一人の人間。地元有力企業に見放されると、生きていくことは難しいといってもいいだろう。
 そのせいで、N鉄が、市民からの要望もあって、
「高架になっていないところを高架にして、ラッシュ時の交通渋滞を緩和させるとい目的のために計画された、一部区間の高架計画」
 というものがあったのだが、時間が掛かったといって済まされるような、生易しいものではなかったのだ。
 実際に計画された、いや、企画の話が持ち上がったのは、まだ昭和だっただろう。
 実際に、地元の立ち退きなどが行われた最初は、今から20数年前だったと記憶している。
 しかし、そこから最期の立ち退きが行われたのは、今から10年くらい前のことだった。
 やっと線路を移動させて、高架橋の建設が始まったのが、そのちょうど後くらい、作り始めると早いもので、高架橋が、
「もう使えるのではないか?」
 と思うまでに、一年もかからなかった。
 こういうと、
「かなり早い」
 と思われるかも知れないが、
「これが普通であり、むしろ、これでも遅いくらいだ」
 といってもいいのではないだろうか?
 だが、実際には、すでに、無駄ともいえるような、20年以上が経っているわけで、住民にとっては、
「いまさら高架にして何になる」
 と思っている人も多いことだろう。
 なぜなら、住民としても、その間、確かに交通渋滞が進んでいて、
「これ以上待っていられない」
 ということで、地域を管轄する自治体が独自に、
「う回路」
 を作ったりとして、応急的な整備はしてきた。
「踏切を増やす」
 という選択肢もあるのだろうが、実際には現実的ではない。
 というのは、問題はそこではなく、そもそも、法律として、
作品名:一毒二役 作家名:森本晃次