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一毒二役

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「トリックの出尽くされている」
 ということもあり、余計に、
「ストーリーにおいて、バリエーションをいかに生かしていくか?」
 ということが、問題になるのだった。
 つまり、本来であれば、今、昔の探偵小説のような、派手さが求められたり、謙虚な姿勢が求められると思うのに、今の時代は、どこか、皆似た感じの話であったり、一つの方向しか見えていないような気がして残念なのだ。
 あくまでも自分の意見であるが、
「アニメや漫画、さらにはゲームの影響が多いのではないか?」
 と思えるのだ。
 アニメにしても、マンガにしても、小説があって、そこからの派生のように思うのは、それこそ偏見なのかも知れない。
 しかし、事実として、
「小説があって、マンガやアニメが存在している」
 という考えは、間違っているわけではないといえるだろう。
 そんなことを考えると、
「今の時代の、マンガ的な、いわゆる、3次元や、2.5次元と言われる世界は、今の時代よりも、むしろ、昔の小説の形に近いのではないか?」
 と思えるのだった。
 下手をすると、今の小説は昔からのアニメに追いつけておらず、テレビドラマなどの原作が、小説ではなく、マンガだったりするのは、そういうことなのかも知れないと思えたのだ。
 単純に、マンガのように、画像で表現できるものを、文章で想像させようとしても、読む側の人間が、本能である想像力についていけないのではないかと考えると、
「事実は小説よりも奇なり」
 などという発想は、生まれてこないのかも知れない。
 一歩間違えると、何が事実で、何が現実なのか? さらには、真実すら何なのか分からなくなってしまうということになるだろう。
 昔のマンガで毒ガスや、毒薬というと、
「大量殺りく兵器」
 と言われ、条約でも、
「禁止兵器」
 になってきている。
 実際に戦場で使われたりすれば、無味無臭なので、気付かずにいると、毒薬を吸ってしまい、全身が痺れてきたりするものであった。
 風向きを間違えると、撒いた方が被害を受け、全滅してしまうというような悲惨なこともあっただろう。
 さらには、当初は、防備用に作られた、
「ガスマスク」
 というものも、つけ方が分からずに、実際のガスを吸引して死んだ人間よりも被害が大きかったりしたものだ。
 しかも、死ななかったとしても、第一次世界大戦などは、毒ガスの後遺症がひどくて、顔が変形したりした人もいたようだ。
 特に第一次大戦などでは、塹壕戦だったこともあって、最悪の自然環境の中、ずっと、そこから動けないで、病気が蔓延して死ぬことになったり、身体が塹壕で潜んでいる時に、動かなくなったりして、その後遺症で、歩けなくなったりする人など、ざらにいたという。
 戦争というものは、攻撃を受ければ、必ず後遺症が残り、いわゆる、
「二次災害の方がひどい」
 という場合もあるだろう。
 その最たる例が、
「核兵器」
 である。
「死の灰」
 というものを浴びると、その後遺症で、内臓が破壊されたり、がんや白血病などを患って、二次災害として、バタバタと人が死んでいくというものであった。
 しかも、実際に被爆していなくても、原爆症に掛かった人からであったり、現場に残った放射能によって、その影響から、逃れることのできないものである。
 そうやって考えると、
「戦争は何も生み出さない」
 というのは、当たり前のことであり、逆に、戦争によってもたらせれた災害は、戦争に参加した人を、
「死ぬまで苦しめる」
 という意味で、
「本当に悲惨なものであり、一体、何のために命を掛けなければいけないのか?」
 ということになるだろう。
 今の日本などでは、戦争や、徴兵などということになると、誰も行くわけがない。
「どうせ、政治家は、俺たちを盾にして、自分たちは助かろうとしているだけだろうな」
 ということであった。
「特に、今の政治家は、自分のことしか考えない」
 と言えるだろう。
 いや、これは政治家に限ったことではない。自治体、自分が勤務している会社組織、果たして、それらが社員や国民の命を助けてくれるだろうか?
 自分たちは、国民を弾除けにして、シェルターのようなところで、国民に、
「死んで来い」
 と命令すればいいだけだ。
 今の国民は、さすがにバカでも、
「戦争にいって、死んで来い」
 と言われて、
「はい、分かりました。立派に国のために死んでまいります」
 という人は一人としていないだろう。
「天皇猊下万歳」
 というような、崇める人間がいるわけではない。どこかの国の首席であったり、また、どこかの国の、
「将軍様」
 であれば、それくらいの権力は持っていることだろう。
 逆にそれだけの権力やカリスマ性を誰かが持っていなければ、戦争などできるわけもない。
「天皇陛下万歳」
 などといって死ぬ文化ではあったが、その分、
「国や家族、国家を守る」
 という覚悟で死んでいくのだ。

                 大団円

 では、今日本が、他国から攻められたらどうなるだろう?
 国民のほとんどは、逃げ惑うに違いない。
 以前、昭和時代の特撮映画で、核戦争を主題にしたものがあった。
 その時、数十分というくらいの時間を取って、
「核ボタンが押されてから、ミサイルがサイロから飛び出してくるシーン。さらに、国民が逃げ惑うシーン、その際に、シェルターに入るシーンや、車が渋滞で動かなくなり、車を捨てて逃げようとする人」
 いろいろであった。
 さらに核ミサイルというのは、
「最初に本体のミサイルが飛んでくる前に、照準の土地のエネルギーを吸収するというミサイルが飛んでくる」
 という。
 つまりは、核ミサイルが飛んでくれば、どこに逃げても一緒なのは分かっているのに、それでも逃げようとする人の気持ちをくじくかのように、電気が止まるのだから、エンジンも掛からなければ、電灯も消えて真っ暗になる。エレベーターには、真っ暗な中に閉じ込められたりして、車を捨てて草原に逃げていく人がいたが、そこで、その男は我に返るのだった。
「もう、どこに逃げても一緒なんだ」
 ということを悟るのだ。
 完全に力が入らなくなり、ただ、ボーっと飛んでくるであろうミサイルを漠然と探しているだけである。
 考えてみれば、人間というものは、
「逃げても無駄だということを分かっているはずなのに、それでも逃げようとする」
 これは、人間だけではなく、他の動物も同じで、それこそ、
「本能だ」
 といってもいいだろう。
 したがって、
「いつ、覚悟ができるか?」
 ということが重要だ。
「もし、自分だったら?」
 と考えると、
「きっと、慌てたりなんかしないに違いない」
 と感じることだろう。
 慌てても、どこにも逃げられない。これは、いじめられっ子の気持ちと同じなのかも知れない。
「どうせ暴れたって、痛い目を見るだけだ」
 と思うと、その場でじっとしていて、
「被害を最小限にとどめていれば、そのうちに、飽きてやめてくれる」
 という感覚で、逃げることを考えるだろう。
作品名:一毒二役 作家名:森本晃次