一毒二役
「あいつは、本当の警察官ではなく、自粛警察なのではないぁ?」
と思うことがある。
つまり、
「犯罪者の敵が警察であるが、その警察の敵が、実は、そいつではないか?」
という発想である。
ただ、ここで矛盾があるのだが、犯罪者と、やつが、近しい関係だというわけではない。
まるで、パラレルワールドの発想だと言えばいいのか、
「マイナスとマイナスを掛ければ、プラスになる」
というような発想ではなく、たまには、マイナスにもなる、足し算の発想ではないかと思えるような発想であった。
ということは、数学的な考え方になるのだが、
「ここでいうそれぞれのマイナスは、数学的なマイナスという定義よりもむしご、幅がひろいのではないか?」
と言えるのではないかと思うのだった。
同じ発想でないからこそ、どちらかに、全体が靡かれてしまう帰来がある。つまりは、
「力の強い方に引き寄せられることで、コースが変わる台風のようではないだろうか?」
確かに、やつの性格は、勧善懲悪という、徹底的に引き寄せる力の強さが影響することで、普通の人が警察官になったのと違い、彼のような性格の人間が警察官になれば、そちらに引っ張られて、まるで、
「自粛警察」
の様相を呈してくるのではないだろうかというころである。
マイナスとマイナスが一つになるという発想を考えた時、ふいに感じるのが、
「色の三原則」
の発想であった。
「円盤に均等にカラフルな色を塗って、高速回転で色の変化を見て行った時、最期は何色になるか?」
ということである。
これは、たいていの人が実験をやっていて、知っていることのはずである。
そう、最期には、
「白色」
になるのだった。
白色が目立つというのは、ある意味、
「いろいろな色が混じって、その末にできた色だから」
という説は、あながち否定できないのではないかと思うのだった。
これだって、
「どんなにカラフルで鮮やかなものだって、最期は、真っ白で何もないと思われるような城に変わるということは、まるで、
「生態系の循環に似ている」
と言えるのではないだろうか?
だから、
「マイナスとマイナスを掛け合わせて、プラスになるという考えは、逆に、パラレルワールドという考えを否定し、数学の根本的な理論を覆すというような考えになるのではないだろうか?」
ということであった。
そのどちらのマイナスが強いかということは、
「マイナスに相手をプラスにできるだけの力を自分一人でも兼ね備えている者だけに言えることないのだろうか? マイナスをマイナっすとしてしか判断できないと、相手がマイナスでないと、プラスになれないということで、それが、自分をいかに、生かすことができるかということを示しているのかも知れない」
と言えるのではないだろうか?
その時の動機の中で、
「一般的なマイナスの代表が、自分である」
ということで、
「元々のマイナス」
を感じていた。
友達には、特殊な性格のマイナスを持っていて、
「それを生かすマイナスが自分」
であり、
「自分が一番流動的なのではないだろうか?」
と感じるのだという。
「マイナスとマイナスを掛けると、プラスになる」
という考えを否定するということは、
「生態系などの、循環を否定する」
ということになる。
ということは、
「生態系などの循環と、パラレルワールドという発想が同じものなのではないか?」
と、かなり、信憑性はないが、考え方として、研究するに値するものではないかと言えるのではないだろうか?
つまり、考え方としては、
「三段論法」
を理屈づけるものとして、考えると、
「A=B」、「A=C」だから、それゆえに、「A=C」だ。
というのが、いわゆる、
「三段論法」
である。
しかし。
「A≠B」、「B≠C」、だから、「A=C」
という考えは、かなり、矛盾はしているので、可能性は限りなくゼロに近いものなのかも知れないが、考え方として、今まで、同じ次元で考えることすら、まったくありえないと思っていたことを、少なくとも同じ次元で考えてもいいということになると、研究に値するものであるといえるだろう。
そこから研究が始まれば、この理論が証明される可能性があるとすれば、
「生態系の循環の矛盾と、パラレルワールドの、平行世界という考え方を同じ次元で考える。
そこから生まれてくるものが、どういうものなのかということを、想像すれば、これも、新しい形の、
「三段論法だ」
と言えるのではないだろうか?
三浦刑事は、本来は文系であったが、こういう理論的なことを考えるのが好きだった。
もちろん、数学や物理などの、専門的な知識などあるわけはないが、中学時代までに習った、基礎的な数学であったり、物理、化学などの学問は好きだった。
そんな中において、自然の摂理であったり、数学の数列などといった、例えば、
「記憶的に並んだものを、いかに論理づけた公式を、たくさん考えることができるか?」
ということを考えるのが好きだった。
中学時代において、一番好きな学問が、実は歴史だった。
歴史の勉強をしていると、他の学問と違って、
「まったく違ったものをしているんだ」
と思うようになり、つまりは、
「勉強ではない」
ということで、自分なりに興味を示して、勉強ができるようになったのだった。
だから、歴史の授業は、
「勉強ではない」
と思っていたので、学校の授業だけでは物足りない。
何といっても、興味を持った部分を、すぐに数行で通り過ぎてしまうのだ。
ここ二十年ほどの間で、歴史の勉強もかなり変わってきた。
以前は、
「暗記科目」
だといって、語呂合わせで、年代を覚えたりしたもので、
「なくようぐいす平安京」
などと言ったものだ。
ちなみに、一番メジャーな覚え方をした、
「いいくにつくろう鎌倉幕府」
は、今の研究で、
「1192年ではなく、1185年の、守護地頭を、全国に配置した時だ」
という説が有力で、
「いいくにではなく、いいはこだ」
と言われるようになっていた。
それが、歴史の勉強としては、一番大変であり、嫌いになる理由の一番だったというのも、実に皮肉なものだった。
三浦刑事は、そんな理論的なことを考える人間だったが、いつの間にか、
「勧善懲悪」
という考えに感化されるようになっていた。
だから警察に入ろうと思ったのだが、それが友達の影響によるものだということを意識していなかった。
だが、実際に警察官になって、最初は巡査として、交番勤務をすると、自分の中にある勧善懲悪の気持ちが芽生えてくるのを感じたのだ。
あれは、空き巣事件が起こった時のことだった。
近所の夫婦がよく差し入れなどを持ってきてくれて、最初に仲良くなれたことで、その土地に馴染めたという意味で、恩人のような人たちだった。
ある日のこと、そお夫婦から通報があり、
「空き巣に入られた」
というのだった。
通帳と印鑑を取られたということであったが、すでに、引き落としが完了しているようで、通帳から、少しであったが、お金が消えていた。