悠々日和キャンピングカーの旅:⑨東北太平洋岸(茨城~岩手)
この議論の間、20家族ほどの保護者が児童を迎えに来ていた。その時、大津波警報が出ていることを報告した親もいたが、教師たちは「学校のほうが安全」、「帰らないように」、「逃げないほうがいい」などと言い、逆に保護者達を引き留めた。山に逃げたものの連れ戻された児童らが、「津波が来るから山へ逃げよう」、「地割れが起きる」、「ここにいたら死ぬ」と教師に泣きながら訴えていた。
最終的に、三角地帯に避難することになり、教職員と児童らは地震発生から40分以上経ってから全員、徒歩で移動を開始した。
その頃、防災無線は「海岸線や河川には近づかないでください」と呼び掛けていた。
児童らが避難先の三角地帯に到着した直後、堤防を乗り越えた巨大な津波が児童の列を前方から飲み込んだ。列の後方にいた教師と数人の児童は向きを変えて裏山を駆け上がり、一部は助かったが、迫り来る津波を目撃して腰を抜かし、地面に座り込んで避難できなくなった児童もいた。
避難先の北上川堤防付近の標高は6〜7mであったが、予想津波高は当初の6mから10mへ変更されていた。以上が被災した時の顛末だ。
避難が遅れた大きな理由は以下の4点。
?学校がある地区は過去に津波の被害がなかったことで避難の意識が希薄だったこと。
?その上、小学校が避難場所になっていたこと。
?避難先に関して、意見の対立や口論の時に、意思決定できる校長が年休で不在だったこともあり、直ぐに決めることができず、時間を要したこと。
?児童を迎えに来た保護者が教師たちに、大津波警報が出ていることを報告したが、それを無視したこと。
最終的に、津波に飲み込まれた理由は次のとおり。
?避難先の標高が津波高より低かったことだった。
繰り返しになるが、“第一報からリスクを少なくする行動を素早く取り、そして最新の情報を得ることに努め、可能な限りリスクをゼロに近づける。なお、これまでの決め事は過去をベースにした内容のため、想定外の状況ならば、決め事以上の対応を取る”ことが肝要なのだろう。
私の「ジル」は、旧大川小学校を後にして、三角地帯を通過して北上川を渡った。R398に戻ってからは山間に入り、トンネルを抜けると再び、リアス式海岸に出た。小さな湾沿いに走ると、幾つかの場所で、被災地の復興状況を見ることができた。そして、女川湾が見えた時、高校・大学で一緒だった友人から突然、電話があった。
大学時代、彼はリードギター、私はドラムス、他のメンバーと共に、フォークソング研究会(フォーク研)でバンドを組んでいた。
そのフォーク研の先輩が、毎月末の土曜日にZOOMで「リモート飲み会」を開催しており、全国に散らばっている当時のフォーク研のメンバーに、その案内メールを配信している。ところが、私へのメールが不達になってしまい、何かあったのではと、先輩が心配して、私の友人に問い合わせた結果、私のスマホに連絡が届いたのが経緯だ。そうなった原因は、それまでの私のメールアドレスは勤務先のもので、定年退職した時に消滅したからだった。
特に理由はなかったが、これまで、「リモート飲み会」をパスしていたが、その場で、次回は出席する約束をした。
この「キャンピングカーの旅」が終わってからの話だが、自宅のカーポートに停めた「ジル」の中から、初めて、「リモート飲み会」に参加したところ、懐かしいフォーク研のメンバーとの会話が楽しく、その後はずっと、続けて参加している。
「キャンピングカーの旅」に出ている時は、その旅先から参加している。それがきっかけとなり、旅先で、フォーク研のメンバーに再会するなど、旅の楽しみになっている。
話をこの「キャンピングカーの旅」に戻そう。
女川湾沿いには新しい港が見えて、その付近には海産物加工工場や倉庫が並び、その先から新しい女川市街が広がっていた。その最初は道の駅「おながわ」で、駐車場はほぼ満車だったが、かろうじて停めることができた。
駅舎内で、スズキとカマスの刺身を買って、「ジル」に戻り、レンチンご飯・味噌汁・ホタルイカの沖漬けというメニューの昼食を済ませ、食後のコーヒーを飲んでから、女川散策を始めた。
先ずは港に行って、停泊中の漁船を見て、津波被害に遭った交番の建物(震災遺構)を見て、その後は、女川駅まで緩やかな上り坂の両脇に立ち並ぶ店を見ながら歩いた。そして女川駅のホームに入り、ディーゼルカーの写真を撮った。石巻からこの女川までの石巻線はBRTではなく、ディーゼルカーが走っていて、女川が終着駅だ。
駅舎の3Fの展望階から見えたのは、駅舎から海まで直線に延びるプロムナード、通称「レンガみち」で、確か、ドローンで撮影され映像が、テレビかネットの番組で紹介されていたことを思い出した。
女川には海が見えなくなるような防潮堤は見当たらず、その理由を、レンガみちに並ぶ店のひとつで伺ったところ、津波の襲来時は高台に逃げることを前提とした街づくりとのことだった。女川の住人は海が見える景色を選んだようだ。
この復興した街並みの女川市街地を歩きながら気づいたのは、これまでと今回の旅で、茨城県の大洗町から岩手県大船渡市三陸町までの東日本大震災の被災地とその復興状況をほぼ見てきたことだった。
この旅も12日目を数え、突然に“里心がついた”ようで、帰宅モードに切り替わってしまった。
その結果、牡鹿半島には寄らず、万石浦沿いに走り、石巻を通過して、三陸沿岸道路に乗り、無料区間のみを走って、その後はR45を走りながら、松島、塩釜、多賀城を通過、仙台を迂回するようにR4で南下をしていった。
途中で軽油を補給しようと、GSの軽油価格を確認したところ、117円〜223円なのでパス、次もパス、その次もパスした。中央分離帯のある上下4車線の反対側にあったGSが114円で安価だったので、Uターンして軽油を入れた。(この紀行文を執筆している2023年11月現在、円安の影響で軽油は1リットル当たり150円前後、それでも政府による「燃料油価格激変緩和対策(政府の補助金)」の30円程度が適用された価格)
今夜はR4沿いの福島県の道の駅「国見あつかしの郷」で車中泊する予定にしたが、思いのほか遠く、到着したのは19時頃だった。駐車場は広く、泊まるには良さそうな道の駅ではあったが、既に駅舎は閉まっており、夕食用のおかずの一品は買えなかった。
疲れていたこともあり、夕食はカップ麺、鯖缶、どこかで買って冷蔵庫で冷やしていた魚(どんこ)の天ぷらで済ませた。
夕食後のルーティンの「旅のメモ」の作成は気分的に厳しく、といって、何かする気にもなれず、テレビを見ながら、だらだらしてしまい、11時には寝てしまった。
【本日の走行距離】251km