悠々日和キャンピングカーの旅:⑨東北太平洋岸(茨城~岩手)
■3月5日(12日目):陸前高田 ⇒ 伊達郡国見町(福島県)
【この日の概要】 多くの土地が整備された「陸前高田」の市街地から、三陸沿岸道路に乗り、いい感じのドライブの後は再び下道で海岸沿いを走った。「神割崎(かみわりざき)」では迫る波の迫力に怖さを覚え、北上川の河口近くでは悲劇の「旧大川小学校」を見た。女川(おながわ)駅前から港に続く美しい「れんが通り」と立ち並ぶショップを見て、この旅の東日本大震災の10年後の見学が終わった。
【この日のポイント】 まだ震災遺構の工事中で立ち入れず、詳細を見ることはできなかった「旧大川小学校」、その幾つかの写真の前で両手を合わせた。忘れてはいけない悲劇の場所で、また来なくてはいけない場所になった。
【本文】 朝食後は、道の駅の前のR45の浸水エリアの標識や旧道の駅などの写真を撮った。
震災後の津波被災地の嵩上げ工事は31ヶ所で行われ、その中の最大の嵩上げ地は、10mを越える津波に襲われ、市街地の大部分が壊滅した陸前高田で、高さ12m、約50ヘクタールの嵩上げの事業総工費1,500億円を費やしたようだ。
震災復興計画によれば、海に近い場所は「新産業」エリア、次いで「新市街地(商工業・公共施設・住宅)」、高台は「住居」エリア、約1000戸の新規宅地が造成された。
復興中の商業エリアを走ると、既に出来上がっていた大型店舗、その周りには小ざっぱりした店舗も。ただ、そこから離れると、元々住んでいた人が戻って建てた民家はあったが、それは数えるほどで、大部分はまだ空き地だった。
R45に戻り、気仙川を渡って、津波で被災した旧気仙中学校に行った。ここからは、別アングルで「奇跡の一本松」の写真を撮ることができた。
その少し上にある旧気仙小学校の周りは工事中で、近づくことはできなかった。道の駅の伝承館では、当時の校長へのインタビューのビデオが放映されていた。その内容は、彼の着任後直ぐに、地震の際の逃げ道を確認したとのこと、その結果、子供たちは津波から非難する行動ができたそうだ。
陸前高田に今度来る時は、パラモーターユニットを持参し、防潮堤の海側からテイクオフして、空から復興した新しい陸前高田を見てみたい。
陸前高田ICから三陸沿岸道路に乗り南下を始めた。ここで、この高速道路について少し説明しよう。
東日本大震災後の被災地の復興を後押しする「復興ハイウェー」と位置付けられ、宮城県仙台市宮城野区から青森県八戸市に至る全長359km、そのうち320kmを超える連続無料区間は日本最長だ。
いまだかつてない早さで建設と開通を繰り返し、完成した大動脈は、南の常磐自動車道に接続し、その先は東京まで続き、被災地の未来を変えるものだ。
たとえば、三陸で獲れた海産物を新鮮なうちに、東京へ運ぶことが可能になり、地元の運送業の活性化につながる。一方で、大手の運送業の進出もあるようだ。車中泊した道の駅「高田松原」には1ヶ月間の来場者は10万人とのこと。人、モノ、金の流れが多くなれば、元住民の呼び戻しにつながり、被災地の復興は進むはずだ。
無料区間に感謝しながら、気持ちの良いドライブを続け、往路で訪れた気仙沼、大島、大谷海岸が車窓風景になって過ぎ去っていった。高速が南三陸町から内陸に入って行くため、志津川ICで下りて、海沿いのR45、R398で女川を目指した。
志津川湾の海側のR398を走っていると、「神割崎(かみわりざき)」の案内標識があり、立ち寄った。
駐車場から散策気味に歩いていると、松林の向こうにキャンプ場が広がり、その先は断崖絶壁のようで、奥に海が見えた。
徒歩約5分でたどり着いた場所は、海洋による侵蝕で二つに割れた奇岩も含めた一帯が景勝地とのこと。見ている間にも、打ち寄せる波が、その狭い隙間に、飛沫を伴い近づくすさまじさに怖さを覚えた。さらには、目の前に二つの岩の間から日の出が見られるとのことで、日本の白砂青松100選のひとつになっている。この地は、志津川湾と南側の追波湾(おっぱわん)双方の湾口の岬だ。
再びR398で、追波湾沿いを走っていると、目の前に突然、カモシカが現れ、左から道路を横切って右の山へ。驚きながらも、とっさのことで写真は撮れなかった。
海沿いを暫く走っていると、対岸が見え始め、北上川沿いを遡っていることに気付いた。その時、津波で被災した校舎が見え、直ぐに「旧大川小学校」だと分かり、その手前の橋を渡り、駐車場に「ジル」を停めた。
震災遺構に向けての工事中で、中には入れなかったが、幾つかの写真が並んでおり、その場で手を合わせ、旧校舎の写真を撮った。
この旅で見てきた被災した学校では、人々が津波から逃れたケースが多かったが、この「旧大川小学校」では、逃げる時間はかなりあったにも拘わらず、北上川を遡上してきた津波に飲み込まれ、児童と教職員あわせて84名が死亡、それは「大川小学校を襲った津波の悲劇」として知られている。
何故、この悲劇が起きたのかを正しく知らなかったので、ネットの情報を収集し、私なりに、経緯を整理して、悲劇を起こした原因や再発防止案についてまとめてみた。ただし、全て私見だ。
再発防止案から述べるならば、“第一報からリスクを少なくする行動を素早く取り、そして最新の情報を得ることに努め、可能な限りリスクをゼロに近づける。なお、これまでの決め事は過去をベースにした内容のため、想定外の状況ならば、決め事以上の対応を取る”ことで、「旧大川小学校」の児童や教師、ここに集まってきた地区の人たちは、少なからず津波から距離を置くことができたものと考える。結果論かもしれないが、そう思った。
本震後から被災までの経緯は以下のとおりだ(少し長い内容だが、ご一読ください)。
校舎は本震で被害が出ていて、余震で倒壊する恐れもあった。教師たちは校庭で児童全員の安否確認をした後に、裏山に逃げた児童たちもいたが、教師に連れ戻された。教師たちは避難先について議論を始め、「裏山へ逃げる」意見と、「校庭にとどまる」意見が対立した。
というのは、大川小学校の地区はこれまで、津波が到達したことはなく、そもそも、小学校自体が地区の避難所に指定されていた。したがって、もし大津波が来たら、ここは危険との意識が希薄だった。
加えて、既に避難してきていた地区の老人がいることから、裏山ではなく、約200m西側にある周囲の堤防より小高くなっていた新北上大橋のたもと(三角地帯)へ避難するという案も上がった。
教頭は「山に上がらせてくれ」と言ったが、この地区の区長は「ここまで来るはずがないから、三角地帯に行こう」と口論となっていた。最高責任者である校長が午後から休暇をとって不在であったことも、判断の遅れや混乱に繋がった。
一方で、校門前には45人乗りのスクールバスが1台待機していたが、「学校側の指示が出ないから、勝手なことはできない」との状況だった。