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静岡のとみちゃん
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悠々日和キャンピングカーの旅:⑨東北太平洋岸(茨城~岩手)

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 たとえば、風景を見ながら、津波の痕跡を探したり、民家を見れば、以前から建っていたのかどうかが気になり、新しい公園があれば、以前の風景を想像したり、砂浜にテトラポッドがあれば、震災後に設置されたものなのだろうと思ってしまう。
 このように、車窓風景に見入ってしまい、「ジル」の速度が落ちてしまった。ちなみに、「ジル」の巡行速度は、これまでの経験から、ほぼ制限時速で走るのがちょうど良く、高速道路は80km/hより少し速い速度がちょうど良い。

 やがて、県道から更に海側の市道の大洲松川ラインに入り、海沿いに北上を続けるとそこは、南から北に延びる砂嘴(さし)の上だった。陸側の車窓風景には、潟湖(せきこ)の松川浦が広がり、海側は約7kmの大洲海岸が続いていた。今、走っている道は新しく嵩上げされた防潮堤の機能を兼ねているようだった。
 震災以前は、松川浦側には100年を超える林齢のクロマツを主体とした海岸防災林が広がり、松川浦県立自然公園に指定され、「渚百選」の大洲海岸の美しい砂浜とセットで、「白砂青松百選」に選定された風光明媚な場所だったと、古いロードマップに記されていた。

 道路脇に駐車スペースがあったので、「ジル」をそこに入れた。
 大洲海岸の景色は、「渚百選」からほど遠い景色で、津波の影響などで、「白砂」は黒っぽくなってしまったのか。この道の法面の下部と波打ち際には、ずらりとテトラポットが並んでおり、人工的な殺風景になってしまった感じがした。
 松川浦側には、松林は殆ど見当たらず、植林された背の低い松の幼木が広がっていて、数人の男性作業員が何やらやっていた。
 ネット動画で見た震災前の美しい「白砂青松」の姿に戻るのかどうかは分からないが、戻るにしてもかなりの時間が必要になるのだろう。私以上に地元の人たちも同じような思いを抱いているに違いない。
 以上の風景を見ながら思い出したのは、震災後のGWの時に実際に見た光景だった。

 震災直後から連日、自宅に届く新聞の一面は震災関連で、その影響もあり、被災地を直接見たくなった。2ヶ月後のGWにひとり、バイクにテントと寝袋を積んで、静岡県西部の自宅を出発した。信州や越後を経由して、猪苗代湖から福島市に入り、そこから福島県の海側の浜通りに向かった。
 目の前を数台の自衛隊のクルマが通過したので、その車列の後を走れば被災地にたどり着くと思い、それらを追うようにバイクで走り始めた。そして見たのは、道路を歩いている人たちが皆、自衛隊のクルマ(の中の自衛隊員)に頭を下げる光景で、それは何回も、何回も続き、今でも忘れられない光景になった。

 R6に交差する手前の山間の集落には、幾つもの家屋の屋根がブルーシートで覆われ、道路にはクルマの通行が困難なほどの段差がまだ残っていた。そのあたりから、被災地を強く意識し始めた。
 R6を横切り、海岸方面に向かったものの、その道は荒れていて、クルマは入れない状況だったが、バイクは入ることができ、その先の被災地の現状をつぶさに見て回った。
 最初に目にしたのは、多くの人が濡れた家具を家から路地に運び出していた光景だった。震災から2ヶ月が経過して、やっと海水が引いたのだろう。
 その少し先には、遠くの海岸沿いにあったはずの、かなりの数の松の巨木が根こそぎ津波で運ばれ、それがうず高く積み重なっていた。それらが松川浦の海岸防災林のクロマツだったと10年経った今、分かった。

 松川浦が太平洋に接続する部分に架かった白くて大きな松川浦大橋に差し掛かった。桁橋が水面からかなり高いのは、松川浦内の漁港やマリーナがあり、それらの船が橋の下を行き来するためだろう。
 この橋は「3径間連続PC斜張橋」という形式だが、初めて知る名称で、どういう意味なのかさっぱり分からなかったが、とにかく、津波の襲来を受けても殆ど被害がなかった強い橋のようだ。

 その橋を渡り切った所に、道の駅ではなく、初めて見る名称の「浜の駅」の「松川浦」が見え、ちょうど昼時だったので立ち寄った。多くの海産物が販売されており、美味そうなメニューの食堂もあったが、たいへん混雑しており、三密を避け、食料品と土産のみを買って、長居はせず、「ジル」に戻った。

 浜の駅の近くに海水浴場があり、その駐車場に「ジル」を停め、先ほど買った「しらうおの刺身」で刺身定食らしいものを準備した。
 「ジル」のダイネットのテーブルで昼食を取っていた時、“いい感じの車窓風景”を見た。
 砂浜に面した遊歩道を歩いてきた老夫婦がベンチに座り、たった今、出港した船を眺めているような風景で、絵画を見ているような雰囲気だった。
 もうひとつは、縄張り争いなのか、数羽のカラスが相手を牽制するように飛びながらギャーギャー騒いて、そこに、海風に体を預けてゆったりと飛んできた鳶が、下々の争いを見下ろしているような風景だった。これも絵画的? その後、鳶に気付いたカラスは慌てて、どこかへ飛んでいってしまった。
 昼食後は、気持ちの良い青空の下、心地よい風も吹いており、コーヒーカップを片手に、砂浜の上を散策した。昼食時も、昼食後も、ゆったりとした時間を過ごすことができた。

 午後の予定は、コミュニティFMの「ラジオ石巻」に立ち寄ることのみで、そこに向かって、北上を再開した。
 今、走っている県道は、被災後に新たに作られた道なのだろう、直線が続き、走り心地が良く、信号が少ないため距離を稼ぐ。しかし、その周辺には民家はなく、ただ、ただ、平たい空き地が広がっていた。そして、海側に見えてきたのは被災した校舎の様で、立ち寄ることにした。

 駐車場に入った時、視察を終えたような集団が数台のマイクロバスに乗り込み、駐車場を出ていった。すると、私ひとりになり、吹く風の音だけになった。
 ここは、宮城県亘理郡(わたりぐん)山元町の震災遺構の「中浜小学校」。この日はちょうど休館日で、校舎内に立ち入ることができず、仕方なく、校舎の周りを歩くことにした。幾つかの場所には看板があり、特に興味を抱いたのは、以下の「先人の知恵」だった。

 中浜小学校の校舎の2階の天井近くまでの高さの津波が押し寄せた時、校舎の屋根裏倉庫に逃げ込んだ90名の児童や教師たちは津波の被害に遭わなかった。その時の経過と津波の被害に遭わなかった理由は次のとおりだ。
 地震発生の3分後に大津波警報が発表され、それは“10分後に6mの津波が到達する”という内容だった。小学校は海岸から500mも離れていないため、児童の足では、決められていた避難場所までは20分は掛かるため、校舎の2階に避難することに変更した。その後、警報は「6m」から「10m以上」の津波の高さに修正された。通常は解放されていない階段を上り、屋上に出たものの、襲来する津波を児童に見せるべきでないとの教師の判断で、2階の屋根裏倉庫に全員で避難した結果、翌朝、全員無事に救出された。
 津波の被害に遭わなかった理由は二つあった。