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静岡のとみちゃん
静岡のとみちゃん
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悠々日和キャンピングカーの旅:⑨東北太平洋岸(茨城~岩手)

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■3月1日(8日目):南相馬 ⇒ 石巻(宮城県)


【この日の概要】 道の駅近くの海浜公園で朝食を食べた後、海岸沿いの道を北上すると、「津波浸水区間」の「ここから」と「ここまで」の表示が繰り返された。やがて、砂嘴(さし)が作った「松川浦」の、かつては「白砂青松百選」の景勝地の復活も進んでいた。震災遺構の「中浜小学校」は、過去の津波に被災した経験から2m嵩上げして建てられ、それで奇跡的に全員の命が救われた。10年振りに訪れた「石巻FM」、かつて取材させて頂いた人は登米のFM放送局にいるとのことで会えなかったが、明日は会えるだろう。

【この日のポイント】 震災の2ヶ月後のGWにバイクで、福島市から浜通りの被災地に入り、最初に見たのが、海岸近くの松が津波で根こそぎ運ばれ、うず高く積もっていた光景だった。10年後の今、松川浦自然公園にかつてあった海岸防災林の場所に植林された松を見て、津波で運ばれた松が、かつての海岸防災林だったことが分かった。

【本文】 午前2時頃、何やら「キーン」と鳴る音で目が覚めた。バンクベッドから下りて、音の出所を探すと、ダイネットのシートの下にあるインバーター(サブバッテリーの12Vを100Vに昇圧し、ダイネット内の家電に電気を供給する装置)からの音で、慌てて、そのスイッチをオフにした。
 昨夜はFFヒーターを使用しながら、蛍光灯を点けて、遅くまでTVを見ていたので、サブバッテリーの充電残量がかなり減ったのだろう。
 加えて、就寝中も冷蔵庫は作動していたので、サブバッテリーの充電残量が更に減少し、インバーターが100Vに昇圧できる閾値を下回ったことで発する音だと推察した。そこまで考えて、冷蔵庫のスイッチも切って、布団に入り眠ってしまった。

 翌朝、昨夜のことを思い出し、旅先でできることを考えたところ、節電しかなく、今夜からは、昨夜の対応方法を倣って、就寝する前に、インバーターと冷蔵庫のスイッチをオフすることにした。
 その時に気付いたのは、夜間の冷蔵庫の中の温度を保冷剤でキープできるのではないかと。昼間は、「ジル」のオルタネーター(発電機)とソーラーパネルで充電されるサブバッテリーが冷蔵庫を作動させているので、そこで凍った保冷剤を夜間に使用するという訳だ。確か、自宅には、宅急便などで使用された保冷剤があったので、それを使ってみることにしよう。
 加えて、夜中に目が覚めた時に、ダイネット内の蛍光灯を付けず、懐中電灯を利用することにした。僅かな節電だが、これは気持ちの問題で、少しでも節電になればとの思いだ。

 さらに、FFヒーターを始めとする電気製品別の消費電力をそもそも知らないし、サブバッテリーの充電残量や低下する電圧を定量的に把握していない。この旅が終わったら、前者は、電気製品別の消費電力のリストを作成することにして、後者については、バッテリーチェッカーを取り付け、電圧や充電残量(%表示)を可視化することに決めた。

 最後に、サブバッテリーの充電残量がどうしても足らない場合は、「ジル」のエンジンを掛けることで、充電残量の挽回ができるので、駐車した周囲のクルマの有無にも依るが、非常時はエンジンを掛けることに決めた。

 そこで早速、エンジンを掛けながら朝食を取ることに決め、駅舎の横の観光マップで見つけたのは「北泉(きたいずみ)海浜総合公園」、そこに向かうことにした。
 そこまでの道の両側に立ち並ぶ民家の殆どが新しく、震災後に建て替えられたのだろう。
 ほどなく、海浜総合公園に到着した。以前の姿は知らないが、全てが新しく、以前の姿を想像できなかった。そして、海側には高い防潮堤があり、駐車場から海は見えなかった。
 広い駐車場には数台のクルマが停まっており、「ジル」との距離を確保できるので、エンジンを掛けたままで朝食の準備に入った。簡単にできて美味しいものと考え、食料の在庫や冷蔵庫の中身を見ながら思いついたのは、ピザまんと肉まんをレンチンして、夕食の残りのさつま揚げ、そして牛乳とコーヒーだった。“今日の活力の源は朝食”なので、肉まんは二つ、食べた。

 海岸の写真を撮るために防潮堤に上がって周囲を見渡した。防潮堤は約400mの長さの弧を描いており、その階段を下りた先の砂浜は海水浴場で、やさしい波が打ち寄せていた。北側には東北電力の原町火力発電所の防波堤が見えた。景色を眺めていた時、ランニングを終えた同年代の男性に声を掛けられ、会話が始まった。
 お互いに時間の余裕があるためか、会話は尽きなかった。たとえば、私からは、キャンピングカーのことやここまでの旅のことなどを話し、彼からはR6周辺の帰還困難エリアや除染の進度などを教えてもらった。
 最後はやはり、今立っているこの海浜公園の場所について訊いたところ、この辺りは全て浸かり、はるか遠くに見える納屋の直下まで津波が到達したとのことで、その面積に驚いた。
 別れ際、彼が教えてくれたのは、道路には津波に浸かった標識(ここから・ここまで)が立っているので、海からかなり離れた場所でも津波が到達したことが分かることだった。

 ここを出発しようとした時、公園の管理人らしい人が長いホースを使って何やらやっていたので、キャンピングカーへの水の補充をさせて欲しいと依頼したところ、快く了解してくれ、生活水用の「ジル」の内蔵タンクへの注水を始めた。
 これまでの道中、生活水をかなり使っていたようで、思った以上に時間が掛かった。彼らはキャンピングカーの車内を見たことがないとのことで、水のお礼に、ダイネットをお見せした。
 ここでの経験から、この旅が終わってから、長いホースを「ジル」に積むことに決めた。

 この紀行文をここまで書いてきた今、この火力発電所やその周辺の土地が津波に襲われた時やその直後の映像があるのではと思い、ネットで検索して見つけることができた。
 ひとつは、発電所側から押し寄せる津波を撮った映像で、岸壁に当たって砕ける津波は恐怖そのものだった。
 もうひとつは、津波襲来後のもので、かなりの被害が見られた発電所、瓦礫に覆われていた海水浴場、そして海水が引かないまま溜まっている内陸部の姿だった。

 被災した頃の状況からは、かなり復興が進んでいて、立派な海浜公園や防潮堤が完成してはいたが、その周辺にはまだ、ショベルカー等の建機が片付けらていなかったことや、きれいに整理された土地がまだ何も利用されておらず、人影もない状況から、真の意味での復興はまだ「道半ば」のように感じた。

 ここからはR6を北上せず、海側の県道を走ることにした。
 間もなく、先ほどの男性が教えてくれた標識が立っていた。それは、三角形のプレートに津波のイラストが載っていて、「津波浸水区間」の表示の下に「ここまで」と表示されていた。この地点から先には、津波の被害に遭っていない年季の入った民家が並んでいた。
 その先でも、「ここから」や「ここまで」の標識が繰り返されると、車窓風景を見る感覚が、これまでと幾分変わってきた。