悠々日和キャンピングカーの旅:⑨東北太平洋岸(茨城~岩手)
海に面した集落の近くに小学校の校舎を建てることに決まった時、過去にこの地は津波に被災したことから、この学区の人たちは、2m嵩上げして、校舎を建てて欲しいと要望し、それが受け入れられたことだった。
もうひとつは、津波が押し寄せる極限の中で、最適な判断ができたのは、この2日前に宮城県では、津波注意報が出た小規模な地震が起きており、いざという時の避難方法について話し合っていたことだった。
校舎の外周を回っていた時に聞こえた風の音が、避難した子供たちの悲鳴のように聞こえた気がした。校舎の北側に建っていたのは慰霊碑で、多分、この地区でなくなった方々向けのものだろう。その前で手を合わせた。その奥に、風にたなびく黄色のハンカチを見た時に思ったのは、過去を大切にする教訓の偉大さだった。
再び北上を続けていた時に見たのは、周囲の荒れ地の中にポツンと、約10年もの間の風雪を経た1軒の廃屋だった。この廃屋は確か10年前にも見た気がした。
その廃屋の風景から、バイクで走った10年前に見た被災地の様子を思い出した。
このあたりの殆どの家が流され、その土台のみが残っている状況で、その周りには瓦礫が散らばり、ひっくり返っているクルマが何台も、流されなかった家々には壁がなく、柱だけで屋根を支えていた。
道路の横に打ち上げられたかなり大きな漁船もあり、その先では、海に続く路地が打ち上げられた漁船と瓦礫で塞がれていた。
被災したJR常磐線のレールの上に1台の電気機関車が残されていた。100トンはあるため、津波にはビクともしなかったのだろうが、多分、貨物車は津波で流されたのだろう。
目の前の風景がトリガーになり、一瞬で、10年も前の記憶を鮮明に思い出すのは、余程の衝撃を伴って、脳裏に刻み込まれたのだろう。当時、記憶なのか、感情なのか、ストレスなのか、私のキャパシティが次第に被災地の光景で溢れてきていたことも思い出した。平易な言葉で表現するならば、悲惨な光景からの衝撃で、いっぱい、いっぱいだった。
今、「ジル」で走っている新しい県道の所々はまだ、未開通の部分が残っていた。そのため、道から外れては再び戻ることを繰り返しながら、北上を続けた。10年後の今、何故、まだ復興の途上なのか。もし、ここが首都圏ならば、とっくに復興しているだろうに、そんなことを思いながら走った。
やがて、津波で飛行機が流されていた映像が印象的な「仙台国際空港」が見えてきた。
空港ビルの正面に向かうと、ビル越しに数台の飛行機が見え、正面玄関あたりには人通りもあり、空港は稼働していた。今の私には全く関係ないのだが、何故か安堵してしまった。
というのは、バイクで10年前、津波で被災した空港ビルに立ち寄り、悲惨な光景を見ていたからだ。
ビルの周辺は荒れ果てており、多くの瓦礫も見えた。ビルの1階のロビーの一部と2階のロビーには立ち入ることができたが、それ以外は封鎖されていた。ビル内のトイレは使用できず、ビルの外に仮設のトイレが設けられていた。
確か2階だったと思うが、津波襲来時の写真パネルが壁に吊るされており、そのひとつを特に記憶している。それは、2階から撮った写真で、駐車場から空港ビルに続く歩道にある2m以上の高さのシェードが殆ど水没していた写真パネルだった。今、その歩道の横を普通に、何事もなく、走ることができた。
この旅が終わった後、NHKの番組「空港ピアノ」の仙台空港編を見た。それは、仙台空港に期間限定で設置された「復興ピアノ」で、津波をかぶり、瓦礫の中からよみがえったピアノだった。外観には震災の爪痕が残り、鍵盤がひとつ無くなっていた。この「キャンピングカーの旅」で、このピアノを見なかったのは残念だった。
空港を後に、更に北上を続け、10年前にテレビや新聞でよく目にした閖上(ゆりあげ)地区や名取川を通過し、仙台港に向けて走った。その道中も、バイクで被災地を回った時のことを思い出した。
海にほど近い場所では、おびただしい量の瓦礫が広がっていて、道にもはみ出ており、それらを避けながら、奥へ奥へと入っていった。ある地点から先は黒い水に覆われていて、水深が分からなかったため、バイクを下りて、その先を歩いて、見て回った。
テレビカメラを担いだ外国から来たテレビ局のような数人のグループを見た。
更に進むと、瓦礫すら見当たらない何もかも無くなってしまった土地もあった。
遠くには、岸壁に打ち上げられた巨大な貨物船の姿も見えた。まだまだ悲惨な光景は続いた。
その時に吹いていた風、匂い、気温も含めて、今でもはっきりと記憶している。この日、この時に、言い換えれば、ここに一瞬いた私でさえ、こうなのだから、被災された方々の心境は計り知れない。
やがてR45に入り、多賀城市、塩竈市、松島を通過。そして、石巻湾に流れ込む成瀬川の右岸を走った時、この川を遡った津波の痕跡をしっかりと見たことを思い出した。その後は津波で多くのもが壊滅していた東松島市を通過して、今日の予定の石巻市に入った。
市街地を抜けると、青い屋根のちょっとかわいい感じの駅舎のJR石巻駅が見えた。石ノ森章太郎のSF漫画の「サイボーグ009」のキャラクターたちも健在だ。それらすべてが懐かしい。
駅を背にして正面に見える3階建てのビル、その3階に「ラジオ石巻」がある。10年前と変わらない佇まいだ。
駅前には駐車できるスペースは見当たらず、駐車場を探したところ、有るには有ったが、駐車場の入口の片持ちの屋根が低く、車高3.3mの「ジル」はそこを通過できず。結局、少し離れたコンビニの駐車場の端に停めた。
無断駐車は良くないので、明日の朝食用の食パンと牛乳を買うことにした。支払いが自動精算機になっており、コンビニでは初めてのこと。多少まごついたが、操作方法を教えてもらいながら支払いができた。そういえば、コンビニの店内のレイアウトが静岡県のコンビニと異なっており、石巻のこの仕様が新しいのだろうか。
少し前から雨が降り出しており、傘を差しながら、ラジオ石巻に向かった。小さなビルの3階に続く階段を上ると、店名は変わったかもしれないが、2階は居酒屋だったことを思い出した。その横を上がると「ラジオ石巻」の入口だ。
傘は傘立てに、脱いだ靴を下駄箱に入れて、スリッパに履き替えて・・・、しっかりと憶えている入口だ。ドアを開けると、「ラジオ石巻」の放送が流れていて、確か、10年前もそうだった。受付台の上の訪問者用のチャイムを押すと、奥から女性が現れ、先ずはご挨拶。そして訪問目的を次のように説明した。
東日本大震災後に、ここを取材させて頂き、そして今、キャンピングカーで静岡から旅をしてきて、懐かしくなり立ち寄った。取材させて頂いた方々にご面会出来れば、と。
歓迎してくれたものの、その当時の人は殆どいないとのことだった。加えて、取材記事が掲載された「技術会の会報誌」を送付していたのだが、知らないとのこと。そこで明日、パソコンを持参して、会報誌のデータを提供する約束をした。