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殺人前交換の殺人

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 いや、逆らうなどというよりも、まわりの人は指示をされて、仕方なくやっているというよりも、キチンと統率されているように見え、頼もしく感じられた。
 その時まだ小さな子供ではあったが、まるで大人の目線のように見えたのは、それだけ、当主のてきぱきした態度が、印象的だったということであろう。
 救急車がやってきて、友達が救急車で運ばれていくのを見て、当主は、ホッとした様子だった。
 命には別条はないだろうが、
「ボヤボヤしているのはよくない」
 ということくらい。子供にも分かった。
「バイキンが入ったら大変だもんな」
 という思いである。
 そういう意味での当主の段取りは素晴らしかった。最初に消毒液を持って来させ、自分から手当てをしていた。
 こういうことは、手慣れたものだったのだろう。農家を伊達にやっているわけではないということである。
 逆に
「農家を営んでいる人が、すべて、今回のような手筈がいいということはないだろう」
 と思った。
 ただ、ノウハウというものは、誰もが持っていて、それを緊急時に発揮できるかということだけだと思ったのだ。
 友達が運ばれていってすぐに、敦子は、ホッとしたのか、安心感からか、ふっと、何も考えられないようになった。
 その時である。
「何か気持ち悪い臭いがするな」
 ということであった。
 その臭いがどこから来るのか、分かっていた気がする。そして、急に、脚がすくんでくるのだった。
 その様子に気づいたのは、近くにいたお兄さんだった。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」
 と声をかけてくれたので、その人を見上げると、
「うわっ、お嬢ちゃん、顔色が真っ青じゃないか?」
 と言ったのだ。
 それを聞いて、今度は気が遠くなるのを感じた。
「お嬢ちゃん、お嬢ちゃん」
 と遠くの方で叫んでいるのが、次第に聞こえなくなってきたのだった……。
 気がついたら、日本間で寝ていた。
 この部屋も、
「無駄に広い」
 と言える部屋ではないか。
 その頃は畳の何畳などということは分からなかったが、だだっ広い部屋の真ん中に、一枚の布団が敷かれ。そこに寝かされていたのだ。
 最初に、声をかけてくれたお兄さんが心配そうにこちらを覗き込んだが、目が覚めたのを見て、安心したようだ。
「どうしたんだい? 急に気分が悪くなったようだけど」
 と聞かれたので、
「何か、急にきつい臭いを感じた気がして、それで気持ち悪くなったんです」
 と正直にいうと、そのお兄さんは、
「なるほど」
 という顔になったかと思うと、
「きっと、お友達の血の臭いだったのかも知れないね。お友達も、大丈夫だって電話が入ったので、君が心配することはないんだよ」
 と言われたので、安心して、ニコリと笑うと、
「だいぶ顔色もよくなったみたいだね。さっきは、本当に真っ青だったので、僕も思わず声を挙げてしまって、申し訳ないことをしたと思っているんだよ」
 と、お兄さんはいうのだった。
 顔色がだいぶよくはなってきたことを思うと、その時の思いが、
「きっと大人になっても忘れられないか、忘れてしまっても、何かのきっかけで、すぐに思い出すことになるのだろうな」
 という思いを、その時に感じたような気がしたのだ。
 もちろん、小学1年生や2年生で、そんな思いをするなんて、普通は思えない。
 だから、大人になってから感じたことを、
「子供の時に感じていた」
 と思うことで、自分にとっての、
「辻褄合わせ」
 であるかのような気がするのだった。

                 エントランスの死体

 この辻褄合わせという感覚が、
「デジャブ」
 というものと結びついているのではないかという考えがあるというようなことを、どこかの本で見たことがあるような気がしていた。
「デジャブ」
 というのは、
「初めて見るはずの光景であったり、初めて来たはずの場所なのに、どこか見覚えがあったり」
 などという、一種の既視感というものが、意識とは別の感覚を持つというそういうものであった。
 医学的には、その感覚の証明はなされていないということであったが、一体どういうことを意味しているというのだろうか?
 デジャブという現象は、誰にでもあるもので、どうも、ふと感じるもののようだ。そう考えた時、
「なるほど、辻褄合わせだと考えると、錯覚という現象はある程度まで理屈として解明できることなのかも知れないな」
 と感じるのであった。
 錯覚を起こさせるということと、マジックなどによる、
「トラップ」
 などというものを比較して考えると、何か分かってくるものがあるような気がする。
「相手に、錯覚させる方を、いかに注目させるか?」
 ということが重要なのだ。
「右手を見ろ」
 と言われると、どうしても右手を注目してしまう。
 その間に、左手で細工をするのだが、それも相手に、右手を見させるテクニックが必要だ。
 天邪鬼な人間は、
「右を見ろ」
 と言われると、
「左を見てしまう」
 という行動に出るだろう。
 しかし、それを逆手に取るという手もある。
 疑い深い人間には、左を見た時、
「素直な人間にしか見えない何かを相手に感じさせる必要がある」
 と言えるだろう。
 これは、正直、高等テクニックであり、マジシャンが自分の成長を目指すという意味で、その途上において、どこまで進化することができたのかということを示すものだといってもいいだろう。
 というのも、これは、催眠術のレベルにあることであり、プロのマジシャンとしては、ある意味、必要なテクニックである。
 マジックの腕というものも当然必要なのだが、
「相手を欺く」
 ということも一緒にできないと、喝采を浴びるだけの芸を見せることはできないのではないだろうか?
「催眠術」
 というよりも、
「洗脳」
 と言った方がいいのかも知れない。
 ただ、問題は、
「催眠術というものよりも、洗脳の方が難しい」
 ということではないだろうか。
 つまり、催眠術というのは、1対1での場合をいうのだが、洗脳ということになると、集団催眠のようなイメージがある。
 ということであった。
 もちろん、集団催眠という言葉があるように、催眠でも、集団に掛けるものもあれば、洗脳というのも、宗教団体を意識するから、集団を考えるのだが、実際には、一人一人掛けていくものだといえるのかも知れない。
 マジックのように、一瞬で相手に思い込ませないといけない場合は、
「そう思い込ませる現状を見せつける必要がある」
 ということになるだろう。
 しかし、それが皮肉なことに、いわゆる。
「マジックのテクニック」
 が、相手を洗脳する武器になるのだ。
「マジックのテクニックを駆使することだけでは足りない部分を、洗脳によって補う」
 ということが、マジックだということになるのであれば、
「逆も真なり」
 ということで、洗脳を行うためにマジックのテクニックを磨くということである場合、「それは十分な相乗効果を生むのではないだろうか?」
 と考えられる気がする。
 それを、最初から、
「負のスパイラル」
 のように考えて、
「堂々巡り」
 であったり、
「片方がムダな努力」
作品名:殺人前交換の殺人 作家名:森本晃次