殺人前交換の殺人
という印象が深い気がしていた。
つまり、
「気になるオーラ」
というものを振りまいているという印象であった。
だが、この時の生徒はそんなことはなかった。
本当に目立たないだけでなく、存在すら打ち消しているかのようで、そう、
「オーラというものを一切感じさせない」
というものであった。
敦子は、以前読んだ本の中で、
「まったく、光を放たない星」
という話を見たことがあった。
「星というものは、必ず、太陽のように、自分から光を放つものであるか、あるいは、光を反射させることで、自分が光っているという、地球や月のような星のどちらかであるという」
確かにその通りで、
「それ以外の星は存在しない」
というのが、理屈であろう。
しかし、その学者の話としては、
「宇宙には、自ら光を発するわけでもなく、光を反射させるわけでもない星が存在するのだ」
というのだ。
だから、その星は、存在しているのに、光を放たないので、存在していることが分からない。
つまり、実際には存在している星がすぐ隣にあっても分からないので、
「気が付けば、隣にいる暗黒の星に潰されていた」
ということも十分にありうるという学説である。
しかも、その先生の計算では、近い将来、その星が地球に最接近してくるというのであった。
ただ、近い将来と言っても、百年や二百年という単位ではなく、数百年ということなので、自分たちが生きている時代ではないということだったので、一安心というところだ。
口では、
「これは、後世の人間に禍が起こらないようにしないといけない」
と言いながら、実際には、
「俺たちには関係なく、自分たちの影響がある子供世代にも関係のないことなので、ほとんどの人は、完全に他人事だと思っていることだろう」
ということであった。
今回の万引き事件を考えた時、
「あの学者が言っていた。暗黒の星」
というのを思い出したのだ。
しかも、その学者の説としては、
「その星は邪悪な星で、地球に近づいてくると、その星から侵略軍がやってきて、地球を押しつぶす前に、まずは降伏勧告をしてくるというのだ。
「黙って、我々の属国となれば、地球を押しつぶすようなことはしない」
ということであろう。
その時の地球というのが、どこまで科学が発達しているか分からない。
SFアニメのように、地球防衛軍が組織されているのだろうか?
そのためには、世界が平和である必要がある。
「宇宙からの侵略に備えて、地球上で争っている場合ではない」
という理屈である。
ただ、この理屈というものは、あくまでも、地球上で、覇権を争っている国がいなくなるという前提にある。
今の世界のように、
「テロ国家」
と認定されている国は、意外とこれが、全地球的規模の話になってきて、
「地球上で争っている場合ではない」
ということになると、意外と、
「自分の国だけのことではないんだ」
ということをすぐに理解できるような気がする。
つまりは、
「自分たちが、テロ国家となったのは、超大国の侵略から自分たちを守るため」
というのが本当の理由なのだから、相手が、
「地球外国家」
に変わったというだけで、
「地球ぼ英軍」
が組織されれば、率先して参加することだろう。
しかも、それまで、
「開発はしていない」
と言っていた核兵器なども、隠さずに表に出すに違いない。
実際に、もうそれどころではないからだった。
逆にそれまで。
「世界の警察」
などと名乗っていた国は、参加するだろうか?
「自分たちが世界の中心にいなければ、我慢できない」
という超大国のプライドがあるからなのか、地球防衛軍も、消極的だった自分たちに先駆けて他の国が作ったのであれば、まるで子供のように、駄々をこねて、
「我々は参加しない」
と言い出すのではないだろうか。
しかし、これが超大国の狙いだったのだ。
「あの国が入ってくれないと、軍事力という意味で、地球防衛軍と言っても、まるで張り子のトラでしかない」
ということになる。
何といっても、武器弾薬、さらには、戦争を行う時のノウハウなどは、
「さすが、今までリーダーとして引っ張ってきただけのことはある」
と他の国も一目置いていた。
それこそ、
「腐っても鯛だ」
というところであろうか。
だからこそ、他の国は、何とかなだめて、超大国にリーダーになってもらいたいと思う。そのために、何とか、今までのテロ大国と呼ばれていた国家に、
「あの超大国に入ってもらうためだ。君たちはあまり目立たないようにしてほしい」
ということを言って、何とか地球防衛軍を組織して、相手に対抗しようと思うのだが、このような状態で出来上がった地球防衛軍というものは、完全に、
「烏合の衆」
であり、下手をすれば、
「張り子のトラの方がましなのかも知れない」
ということになってしまう。
いくら将来の出来事とはいえ、
「どこまで言っても、人類に将来はないだろうな」
と考えさせられることであろう。
敦子の記憶
最近は、数年前から起こっている、
「世界的なパンデミック」
のせいで、世の中がすっかり様変わりしてしまった。
特に最近では、
「三密」
などと呼ばれていて、
「ソーシャルデイスタンス」
などという聞き慣れない言葉まで出てくる始末だ。
その影響もあって、
「人込みはいやだ」
という人も増えてきた。
元々、人込みが好きだという人も珍しいと思う。ただ、子供の頃などは、祭りや花火大会など、
「人がたくさんいるだけで、嬉しくなる」
というような感情もあったものだが、大人になるにつれて、それが変わってくるというものだった。
たとえば、小学生の頃、家族で温泉旅行などに出かけた時、親は、くたくたになって、「部屋でくつろぎたい」
と言っているが、子供心に、
「せっかく温泉にきてるのに、ゆっくりするなんて、もったいない」
と思っていたのを思い出す。
旅館内をいろいろ探検したり、他の同じくらいの子供がいれば話しかけたくなるのも、子供としては無理もないことだ。
しかし、親からは、
「おとなしくしておきなさい。他の子に話しかけるなんて、余計なことをしてはいけません」
と言われたことを、
「不思議でしょうがない」
と思っていたのだ。
「せっかく来たのに、他の子と遊んじゃいけないとか、どういうことなんだ? 親が相手をしてくれないから、友達を作ろうと思ったのに、それの何がいけないんだ?」
と普通だったら思うだろう。
しかし、親とすれば、
「相手だって、ここまで来て疲れているに違いないのに、わざわざ声をかけると、相手も気を遣う」
と考えるようだ。
とにかく、親としては、子供に、
「相手に気を遣わせるような行動はしてはいけない」
と思っているようで、きっと自分たちも声を掛けられると、嫌な顔の一つもしたいものなのに違いないと思うのだろう。
だが、実際には、自分たちが大人になると、子供の頃に思っていたことを忘れるのか、とにかく、
「疲れた。ゆっくりしたい」
という思いがある。