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殺人前交換の殺人

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 デジタル表示されているのが標準の時計だが、いつ頃から、デジタル時計で時間を容易に判断できるようになったというのだろう。
 アナログのように、長針と短針の角度と、さらには、長さのバランスを見ただけで、大体の時間が分かったものだ。
 しかし、デジタル時計は、言い方は悪いが、
「単に、数字の羅列ではないか?」
 ということである。
 並んでいる数字が、時刻を表しているということであれば、その数字というのは、慣れなければ分かるものではない。
「では、逆に、アナログ時計をあまり見たことがない」
 という、ケイタイからスマホに流れる人たち、ちょうど今の二十代くらいであろうか?
 携帯電話というものが、
「一人一台」
 というくらいまでに普及したのは、二十一世紀になってすぐくらいのことであろう。
 それを考えると、時期的には、ちょうど今から二十年前ということになる。今の29歳の人が20年前というと、小学生だった頃ということになるだろう。
 それを思うと、
「それ以降の人は、時計を身につける習慣がなくなっていった世代ではないか?」
 と言えるだろう。
 昔であれば、家族が中学に進学した時のお祝いの代表的なものとして最初に思い浮かぶものとしては、
「腕時計」
「万年筆」
 ということになるであろうか?
 しかし、万年筆というものも、今の時代に使うことはない。ボールペンやシャーペンは使うこともあるだろうが、ほとんどは、パソコンや、スマホのメモ機能くらいであろうか。それを考えると、
「時代の移り変わりというものは、激しいものなのかも知れないな」
 と言えるであろう。
 ただ、腕時計をしなくなったのは、ある意味寂しいような気がする。夏などは、
「左腕に腕時計のところだけ、日焼けの痕がない」
 というような光景が見られないのは、少し寂しい気がする。
 きっと最初の頃は、腕が寂しいのか、それとも軽さからか、
「あっ、どこかに腕時計を忘れてきたのでは?」
 と、腕時計をしなくなった意識に慣れていないことで、ドキッとしてしまったことは、誰にでもあることであろう。
 そんなことを考えていると、配達員は、急にそれまで聞こえなかった音を感じた。
 最初その音が何であるか分からなかったが、明らかに懐かしい音であった。
 しかも、決まったような感覚で聞こえるその音は、
「静寂の中にこそ、ふさわしい」
 と感じさせるような音だったのだ。
「カチッカチッ」
 正確に時を刻んでいるその音は、まさに、アナログ時計の、しかも、秒針が奏でる音ではないか?
 最近の、スマホや街で見かける時計でも、分を表すところまでは見えていたとしても、秒を表すところがあまり、ハッキリとは見えていない。
 この件に関していえば、これはあくまでの勝手な思い込みなのかも知れないが、
「デジタル化のための弊害なのではないか?」
 と感じるのであった。
 というのは、これは、時計自体の問題ではなく、別のデジタル化というのが、問題だったのではないかと思える。
 というのが、映像に関するものであり、今では、
「地上デジタル」
 いわゆる
「地デジ」
 であったり、
「衛星デジタル」
 と呼ばれるものに、すべてが変わったが、今でも、アナログで放送されているものもないわけではない。ただ、デジタルにすべては移行するまでは、当然のことながら、デジタル放送を見ている人、さらに、アナルぐ放送を見ている人と、バラバラだった。
「自宅では、アナルぐだけど、会社のテレビはデジタルになっている」
 というところは、逆のパターンだってあるだろう。
 会社のテレビは、ずっとアナログで、デジタル放送になった時点で、もうテレビが映らなくなった。
「しょうがない」
 ということなのか、
「これを機会に、もう会社でテレビを映す必要はないだろう」
 ということになったのだ。
 もう、スマホも一般に普及しだしていたので、
「テレビで見る必要もない」
 ということだったのだろう。
 この時の、デジタル画像と従来のアナログ画像とで、大きな、致命的な違いがあったのだった。
 というのも、デジタル画像と、アナログ画像が同じ番組で、若干の時差があったのだ。
 数秒のタイムラグであったが、その違いが、影響するのが、
「時報」
 だったのだ。
 つまりは、時報をアナログで合わせた場合と、デジタルで合わせた場合では、数秒違うのだ。
 そうなると、たとえば、
「最初にデジタルで合わせておいて、今度は、ずれていないかをアナログで合わせようとした時、数秒の違いが生じることになる」
 というのだ。
 せっかくの時報が、
「本当はどっちなのだ?」
 ということになる。
 いずれは、デジタルが主流になり、アナログは、それまでの、
「猶予期間」
 ということなので、当然アナログは、
「間違った時報」
 ということになるのだが、結果、すべてがデジタルに移行するまでが、混乱を余儀なくされるということになる。
 それを考えると、
「どうすればいいのか?」
 ということになるのだが、考えられることとすれば、
「では、もう秒針の感覚をやめてしまえばいい」
 という意見が出てきたとしても、無理もないことだ。
「確かに数年で混乱は収まるが、考えてみれば、そんな秒刻みなのが必要なのか? ともいえるんですよね。スマホにもガラケーにも、標準で時計やアラームと同じように、ストップウォッチという機能もついているわけですよ。時報で時刻を合わせるのだって、時報がきた時点で合わせればいいだけなので、問題は慣れではないかと思います」
 という人が出てきて不思議はない。
 あの時の混乱であれば、どちらに合わせて時計をつくっても、混乱を逃れることはできない。
「だったら、いっそなくしてしまった方が」
 というのは、当たり前のことであった。
 だから、最近の時計には、秒針がない。
 ただ、アナログ時計では、秒針がある時計が多い。昔のテレビなどでは、0時の時報など、アナログ時計の画像が出てきて、残り3秒くらいの時点から、
「ピッピッ」
 と言い出し、すべての針が重なった瞬間が、
「ピーン」
 という音がなって、ナレーションで、
「午前0時をお知らせいたします」
 というのが、当たり前の光景であった。
 今の子供は、
「アナログ時計を見たことがない」
 というだけではなく、
「時計というものが、秒刻みだ」
 ということすら知らない世代なのではないかと思うと、いくら、
「時代の流れだ」
 ということであっても、寂しさを拭いえないといってもいいだろう。
 そんなことを考えていると、時を刻む。しかも、アナログ時計の音など、普段は聞いたことがないはずなのに、さらに、
「懐かしい」
 と感じながら、まったく違和感がなかったおだ。
 なぜなら、秒針の音がしてくるのを、しばらく気づかなかったということであろう。最初からその音がしていたということでなければ、辻褄が合わないからである。
 先ほど、あれだけ静寂で、
「ちょっとした音でも、まわりに、ガンガン響きそうな気がする」
作品名:殺人前交換の殺人 作家名:森本晃次