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二人二役

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 昔、城を新築する時には、支城や、元の本城から、資材を移設するということは当たり前のように行われていた。
 戦国時代の城でも、長浜城を作る時、滅亡した浅井氏の居城、小谷城から移設したり、彦根城も、石田三成の佐和山城や、琵琶湖の京に近いところにあった大津城から移設したということで、少しでも竣工を早めようと努めたのだろう。
 そういう意味で、F城築城の際に、N城からの移設がかなりあったといっても過言ではない。
 幸か不幸か、F城完成後、江戸幕府による、
「一国一城令」
 というものが発布された。
「豊臣氏が滅びて、もう戦の火種はなくなったことで、時代を二度と戦国の時代に戻してはいけない」
 という意味で、徳川家康が定めた、
「元和堰武」
 というのがその表れであった。
「一国一城令」
 もその表れで、
 一つの藩に、二つの城はいらないということである。
 つまりは、城があっても、それは、戦のための城ではなく、領主が領民に対しての威厳であったり、そもそも、住居として使うための、
「屋敷」
 としての機能で、城は、
「一つあればいい」
 というわけである。
 N城も結局は、
「一国一城令」
 によって、なくなる運命であり、F城に移設された時点で、N城の終わりとなるのだった。
 江戸時代から明治にかけて、そこに何があったのかまでは知らないが、今は、マンションが立ち並んだ、F市への通勤のベッドタウンとなっているのだった。
 ただ、城跡には公園が築かれ、端の方に、
「N城址」
 と書かれた石碑があるだけで、遺構などは、ほとんど残っていない。
 逆に、F城の方がたくさん残っているので、
「中には。N城から移設したものもあるだろう」
 ということで、研究や発掘は行われたようだ。
 実際に、F城記念館の仲では、発掘調査で分かったことなども書かれていて、
「在りし日のN城」
 という模型が飾られていた。
 しかし、最近の発掘調査で、異説が唱えられるようになってきた。
 というのは、
「N城には、天守閣が存在した」
 という話であった。
 ただ、どんな天守閣かということまでは分かっていないのだが、どうやら、天守があったとすれば、
「かなり前のもので、天守がまだまだ普及していない、初期段階のことではないだろうか?」
 と言われるようになっていた。
 前述のように、松永久秀の時代に築かれた信貴山城が最初だと言われているところに、荒木村重の有岡城が浮上してきた。そうなると、
「F県の、N城にもあったとされる天守が一番最古のものだったのかも知れない」
 という話になるかも知れない。
 N城に関してのもう一つの発見として、
「天守があったとしても、それは、ごく限られた時期だけのものだったのかも知れない」
 ということだったのだ。

                 N城天守問題

 その時期をいうのは、どうも、隣国の大名から攻められた時だというのだ。
 その地区では、京から離れた地域になるので、幕府の力も及ばない。
「地方は地方で、戦略を練って、群雄割拠している」
 ということで、京に近くて、しのぎを削っているところよりも、地方の方が、下克上は激しかったのかも知れない。
 守護代であったり、国人などと呼ばれる集団が集まって、領主に反旗を翻すと、領主も、さすがに守り切れない。
 何しろ、他の国と戦をする時は、領主の手足や頭脳となるべく連中が、勝手に動き出したのだから、手に負えるわけがない。
 まるでフランケンシュタインのようなもので、
「味方であれば、これほどの千人力はいないが、敵に回してしまうと、もうどうしようもない」
 ということになるのだ。
 そこで、彼らの作戦としては、
「城を難攻不落に思わせて、相手の動きを鈍らせよう」
 ということになった。
 その時に考えられたのが、
「じゃあ、多くな塔のような建物を作って、相手を威嚇すればどうだ?」
 ということであった。
「そんな建物、作るのに時間がない」
 といえば、
「何、脅かすだけだから、張り子でいいんだ」
 ということで、作戦としては、
「秀吉の、墨俣一夜城」
 のような作戦だった。
 ちなみに、時代とすれば、こちらの方が少し早い、専売特許があるとすれば、こちらにあるといってもいいだろう。
 そこで、張りぼてに毛の生えたような天守のようなものだったが、相手はすっかりビビッてしまって、最初に少し攻撃しただけで、引き下がっていったのだ。
 少しの間、天守は張り子のままで残ってたが、何しろ特急で作ったものなので、すぐに壊れてしまった。
 ただ、
「これを機会に、天守を作るか?」
 という話が持ち上がった。
 もちろん、その時には、天守などという言葉はなかっただろうから、適当な言葉を当てていたに違いない。
 ただ、短期間だけでも存在していた天守を絵に描いた男がいた。それが発掘の際に見つかったことで、
「天守が存在したのではないか?」
 ということで調べてみると、攻めてきた側の国に残っている資料を見ると、
「F藩に攻めていった時、威風堂々とした颯爽な建造物に、恐れおののいた」 
 というような歴史書が残っていたのだ。
 実際には信憑性のある歴史書だったので、
「世紀の発見」
 と呼ばれたものだ。
 この城に、
「天守閣があった」
 という話は、
「都市伝説」
 として昔から残ってはいた。
 しかし、あまりにも漠然としたもので、その形が書かれている書物が見つからないのだから、
「都市伝説だ」
 と言われてもムリもないことだった.
 しかし、隣の県の城を発掘してみると、この城に聳えていたとされる天守とまったく違う形の天守があったのだ。
 当時としては。まだ天守はほとんどなかったことから、
「どんなものを作っていいのか分からない」
 ということで、N城天守も、家臣たちが、
「いかに相手の度肝を抜くか・」
 ということで考えられた天守だったのだ。
 奇抜でさえあればいいわけで、相手が、戦意を喪失するような、歪であってもかまわない。
 そういう意味で、
「まるで鬼の面とでもいうような形相に近い天守だったといえる」
 というような城で、実際にどのようなものであったのかは、N城址からは、ほとんど発見されなかったが、近くの民家に残っていた絵巻のようなものから発見されたのだった。
 その家では、元のN城主だった男の家老をしていたという。
 家老自体は、城主が転封された時に、付き従っていったのだが、どうやら、天守を描いた絵だけが残されたようだった。
 今まで残っていたというのも奇跡のようなものだが、家人も、蔵の中にあるのが、戦国時代の家老のもので、家宝のようなものだということは知っていたが、それがどういうものであるかということは、ハッキリと分かっていなかったのだ。
 ということで、ちょうど、テレビ番組で、
「家宝などを持ち寄って、鑑定してもらえる」
 というものがあったので、出演して、専門家に鑑定してもらうことにした。
 放送は普通に行われ、
「信憑性は限りなく高い」
 という評価だったのだが、それだけでは済まなかった。
 番組とは別に、
作品名:二人二役 作家名:森本晃次