二人二役
さらに、明治維新の時、徳川幕府のものも徹底的に壊されたり、特に、廃刀令、廃城令、さらには、廃藩置県、四民平等と、ことごとく武士を迫害する形になったのも、やはり、「天皇中心の中央集権国家だ」
ということを、諸外国に示し、昔の、幕府の時代ではないことを示す必要があったのだろう。
そうでもしないと、
「諸外国から舐められて、日本の悲願である不平等条約の解消ということにはならないだろう」
ということである。
とにかく、日米修好通商条約という不平等条約を解消しなければ、せっかくの明治維新もなりたたない。
明治維新の最大の目的は、
「海外からの植民地として侵略を受けないようにするため」
というのが目的であった。
すでに何ら力のなくなってしまった幕府では、侵略されればひとたまりもないというのが当然の意見であろう。
ちょうどそんな時代の先駆けとなった男が、暗殺されたのが、この時代だった。
まだ新政府ができる前で、新政府の橋渡しともいうべく、
「薩長同盟」
を結び、
「船中八策」
であったり、
「亀山社中」
などという株式会社の元祖を作ったのもこの男だった。
そう、歴史の、
「もしも」
の、近代における出来事は、
「坂本龍馬暗殺事件」
であった。
首謀者の候補はたくさん出ている。何しろ、当時の京都で、
「一番暗殺事件の起こりやすい人物」
ということで注目されていた人物だったからだ。
容疑者としては
「京都見回り組」
これが、一番有力と言われているが、他には、
「新選組」
「薩摩藩」
「朝廷」
と、対立している組織がすべて、暗殺者候補に挙がるというだけ、本当に、
「皆から狙われていた」
といってもいいだろう。
中岡慎太郎と一緒に暗殺されたのだが、
「坂本龍馬暗殺が、一体どういう利点があるというのか?」
と、誰もが不思議に思うところであった。
それだけ、暗殺と欺瞞、さらには欲望という邪悪な空気が幕末の京都を不穏な空気にしていたということであろう。
坂本龍馬は、そんな京都で暗躍していた。本来なら、夜に出歩くのは、もっての他だったのだろうが、それでも、積極的に出歩いた。ある程度は覚悟はしていたのかも知れない。
しかし、今の自分たちは歴史を知っているから、坂本龍馬の暗殺を残念に思うのだが、歴史がどこかで変わっていると、竜馬暗殺も、正しいこととして伝えられ、他の暗殺事件と同じ、教科書に1,2行載っているだけなのかも知れない。
もっとも、今もそうかも知れないが、とにかく歴史というのは、
「何が正しいのか?」
などと考えること自体が、おこがましことなのかも知れない。
F県にある城跡公園といえば、県庁所在地のど真ん中に、大きな城がある。その城は、公園として整備されているが、元々は濠が現存する
「江戸時代から存在する城」
であった。
かの天下分け目の決戦において、東軍にあって、父親譲りの調略家と言われた男は、その名に恥じず、西軍の武将を東軍に寝返らせた。
何と言っても、相手が家族を人質に取った時、
「家族が心配なら、わしの元を離れて、向こうについても、恨みには思わん」
と家康に言わせることで、東軍の団結を深めた武将であった。
その彼が関ヶ原の論考により、F藩を賜り、そこに築いた城だった。
今は天守は現存していない。元々、店主はあったようだが、家康の、
「一国一城令」
によって、他の城の天守が残ることで、こちらは、天守を廃することで、
「謀反の心などない」
と言わせたのだった。
何といっても、父親が偉大で、かの秀吉に、天下を統一してからしばらくしてのことであるが、
「今、わしに対して謀反を起こせば一番恐ろしい敵になる」
と言わせた男だった。
そんな話をウワサに聞いた彼は、
「謀反の心はない」
とばかりに、出家して、仕えることにした。
その父親と同じような感じである。
城は、結局幕末まで存在し、一度も城主の世襲が変わることなく明治を迎えた。
そして、明治期の廃城令にも引っかからず、城は存続した。
そして、大空襲を何とか逃れ、戦後には、公園として整備されたのだ。
競技場などがたくさん作られ、プロ野球の本拠地として長く親しまれてきたが。遺跡の出土と、親会社の、
「ドーム球場計画」
が重なったことで、その後、野球場は解体されることになった。
そして、平成から令和の時代になると、かつてより、城が残った公園と、お濠に隣接した公園を、市と県で、バラバラに運営していたものを、
「セントラルパーク計画」
ということで、管理を一つにして、文化財などを広く観光客や地元民に紹介するという感情事業を考えていたようだ。
ただ、本来であれば、
「この機に、店主の復元を」
と考えるべきなのだろうが、
「歴史的資料に乏しい」
ということで、議会決定で、
「天守復元は行わない」
ということになったという。
しかし、だったら、何も復元天守にしなくても、模擬天守として復元し、観光に一役買うという手もあるのだろうが、それ以上に、本当に財政がひっ迫しているということなのだろうか?
そんなことを考えてみると、
「復元しないのは、ただ単に金がないからじゃないか?」
と思えてならない。
だとすれば、城ファンに対しては、実に浅はかな回答である。
「再建しようと思えば、模擬天守だってできるはずだ」
ということになる。
行政に対して、
「舐めるのもいい加減にしろ」
と言いたいだろう。
何も、
「絶対に再建しろ」
と言っているわけではなく、
「金のないのを資料不足のせいにしてごまかそうとする根性が気に入らない」
ということだ。
「どうせ、特権階級の連中が、甘い汁を吸っているんだろう」
ということになるのだ。
しかし、F県か、F市なのか、どちらが管理をしているのかは分からなかったが、結果、
天守の再建は今のところ、白紙状態ということであった。
もちろん、市民や県民の意見や民意が沸騰してくると、話が変わってくることになるであろう。
そう思うと、今のまま、様子を見るしかないというのが、当面の考えなのかも知れない。
元々、そこに転封されて栄転となる前の城主は、別の城にいたのだが、そちらは、あまり話題になることはなかった。
「そんなところに城があったのか?」
という程度で、地元の人も知らないだろう。
ただ、歴史ファンは知っているようで、城廻をしている人は、F城とセットで、この城も回っていた。
今は整備されて、公園になっていた。児童公園よりはもちろん広いが、
「こんなところに、本当に城があったのか?」
というほど狭いところで、話によれば、
「天守閣もなかった城だ」
ということであった。
ただ、そのかわりに立派な本丸御殿が存在したようで、F城の一角に、歴史資料館があるが、そこには、F城と一緒に、こちらのN城のことも載っていた。
本丸御殿の模型のようなものもあったが、F城を作る時に、こちらの城を廃城にして、その分の資材を、F城に移設したと伝わっている。