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二人二役

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「自由貿易という、今の民主主義の基礎」
 を楽市楽座で示したり、
 さらに、
「鉄砲が戦でいかに強力な武器になるか?」
 ということを証明したのだった。
 つまり、
「先見の明という意味でおいては、彼ほどの人間はいない」
 ということであろう。
 しかし、明智光秀の謀反で殺されることになるのだが、あまりにも謎が多い気がする。
 信長も、光秀に対し、言われているような嫌がらせのようなことをしていれば、光秀でなくても、謀反を起こすのは当たり前だというものだ。
 むしろ光秀だから、あそこまで我慢できたのかも知れない。もし相手が、福島正紀や、井伊直正のような、血気盛んな武将であれば、一歩間違えれば、面会中に切りつけられるレベルの問題だったに違いない。
 しかし、それくらいのことは信長にも分かっていただろう。それを、無防備な本能寺において討たれたのである。
 確かに、本能寺というところは、寺というよりも、城というような要塞だったと言われているが、兵とすれば、100人ちょっとくらいで、1万に近い兵を動かして、中国地上の秀吉の軍に加わろうというのだから、いくら戦の天才とはいえ、助かる見込みは万に一つもないといってもいいだろう。
 ただ、信長が、光秀の謀反に、そこまで怒り狂ったという話は伝わっていない。
 どちらかというと、
「是非に及ばず」
 とばかりに、仕方ないと思っていたようだ。
 まるで、
「死を覚悟」
 していたかのようではないか?
 信長という男は、海外に目を向けて、貿易によって、金を儲け、武力で天下を統一しようとしていたのだ。
 ひょっとすると、天下を統一すれば、自由な発想で、民主主義のような世の中になっていたかも知れない。
 光秀の3日天下から、秀吉に移ることで、秀吉の天下になったのだが、秀吉というのは、気の毒な面があった。
「自分の大切な人が、特に身内が次々に亡くなっていく」
 ということであった。
 参謀として一番期待していた、弟の秀長。
 彼は、城づくりや縄張りに関しても、才能を発揮していた。その彼が死んでしまったことから、運命が狂い始めた。
 せっかくできた長男の鶴松を亡くし、さらに、一番大切だと思っていた、母親である、大政所を亡くすことになったのだ。
 その頃から秀吉はおかしくなっていった。
 跡取りを養子、甥にあたる秀次にしておいたにも関わらず、自分に息子ができてしまった。
 このパターンは、室町幕府における八代将軍、義政にも言えたのだが、そのせいで何が起こったのかというと、戦国時代の火種となった、
「応仁の乱:
 であった。
 応仁の乱は、11年も、京都で続き、都が焼け野原のようになってしまっていた。そんな大事件のきっかけとなったのと同じことが秀吉の身に起こったことで、親心として、秀吉は、息子に継がせたいと思うようになり、結果最悪の結果をもたらした。
 跡取りであった秀次の素行の悪さと、謀反の企みをでっちあげて、高野山に幽閉し。最後には切腹させてしまった。
 それにより、秀吉は狂ったようになり、そこから先は、政治どころではなかった。
 朝鮮出兵であったり、千利休に切腹を命じるなど、そのやり方は、常軌を逸していたのだ。
 秀吉自体も、病気になり、亡くなることになるが、そこに家康が、
「待ってました」
 とばかりに、豊臣政権の内乱を舞台に、せり出してくることになる、要するに、
「一代しか持たなかった」
 ということだ。
 そういう意味で、信長が天下を握っていればどうなっていたか?
 信長のことを、皆は。
「血も涙もない」
 といっているが、それはあくまでも、贔屓目に見るからではないか。
 延暦寺の焼き討ちにしても、そのやり方が皆殺しというだけのことで、
「戦であれば、皆殺しは当たり前のこと」
 と言えるであろう。
 清盛が頼朝の命を救ったことで、結果、一族が滅ぼされたのを見ていることからも、当たり前のことである。
 秀吉だって、秀次事件において、秀次の家族や、関係者を皆殺しにし、それでは飽き足らず、
「秀次が生きた証」
 と言われるようなものを徹底的に壊している。
 特に、自分が作って秀次に譲った、
「聚楽第」
 も、跡形もなく葬り去ったのもそのためである。
 本来なら自分の息子が関白になった時、住むはずの場所をである。
 家康にしても、豊臣家を滅亡させている。それは、やはり頼朝のことが頭にあったからのことで、少しでも、徳川の天下を脅かすものは、生かしてはおけないということだったのだろう。
 それが、戦国時代から、織豊時代と呼ばれる、安土桃山時代から、江戸幕府初期に繋がる時代だったのだ。
 そういう意味で、信長の暗殺が、大きな転機となったのは事実であろう。
 信長という人物が果たしてどういう人物だったのかというのは諸説あるが、少なくとも、冷静沈着で、言われているような、冷酷無残な人間というわけではないと思うのは、作者だけであろうか?
「当たり前のことを当たり前にする」
 そんな経験が、うつけ時代に育まれているかのように思う。
 彼らのような領主と呼ばれ、さらには、天下人を目指している人間は、えてして、
「きれいごと」
 だけでは済まされない。
 また、意地だけを張って、逃げなければいけない時に、強情に立ち塞がり、殺されてしまっては、身も蓋もないだろう。
 歴史というものが、その人物を必要としているのかどうか分からないが、
「蘇我入鹿にしろ、織田信長にしろ、歴史上、勉強すればするほど、その必要性をひしひしと感じる人が、なぜ殺されなければいけないのか?」
 ということを考えると、
「本当に、歴史は答えを出してくれるのだろうか?」
 と思えてならない。
 昔の人は、
「今の自分たちには分からないが、いずれ歴史が自分たちがやったことを正しいかどうか、答えを出してくれる」
 と言ったとか言わないとかを聞くが、果たしてそうなのだろうか?
 そもそも、
「歴史上の答えって、どこにあるのだろう?」
 ということである。
 時代が先に続いていくということは、いつが、その答えなのか、誰が証明するというのだろう。
 たまたま、時代がその答えを求めているとすれば、その答えを勝手な解釈で求め、自分たちの正当性を主張するための、政治利用にされることだってあるはずだ。
 そうなってしまうと、世の中はうまくいかないだろう。
 たいてい、過去のことを政治利用し始めると、その政権はあまり長く続かないという場合が多い。
 そうなると、今度はまったく違う考えの政府ができあがるわけで、これまで、
「正義」
 と言われていたことが悪の代表となり、政府に握りつぶされていたことが、あたかも新たらしい発見であるかのように示され、それが、
「歴史の出した反対の答えだ」
 といってしまうと、これも、一種の政治利用である。
 つまり、
「歴史の勉強は、一歩間違えれば政治利用にさせかねないことを、させないような目を養うためにすることだ」
 ということになるのだろう。
 政治利用という意味で、豊臣時代から、徳川時代になった時、徳川家が、豊臣家にゆかりの場所を徹底的に破壊したということもあった。
作品名:二人二役 作家名:森本晃次