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二人二役

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 少し前までは、商売をするのに、許可が言って、今でいう、
「みかじめ料」
 のようなものが必要だったのだろう。
 しかし、信長は自由に商売をさせることで、そこから富が自然と生まれ、商売の活性化が、自分たちをも潤してくれるということを分かっていたのだろう。
「先見の明がある」
 というのは、まさにこのことであろう。
 信長にとって、城というもおは、特別な思いがあったのかも知れない。
 桶狭間で勝利し、天下布武を前面に押し出した清州の城から始まって、稲葉山城、これを自分が入って、岐阜城と改めた。そこで、初めて、楽市楽座を行い、自由貿易をさせることで、城下町の発展および、自分の利益にもなることが証明され、今度は、自分の城への思いの、
「最終形態」
 ともいえる、安土城を完成させた。
 琵琶湖のほとりにあり、京まで、陸路でも海路でもすぐのところに位置し、東海道、北陸道の分かれ道に近い土地ということもあって、ロケーション的にも、ちょうどいいところであったのだった。
 これが、いわゆる織田信長という人物であり、そういう意味で、本能寺の変で、天下統一目前で倒れたのは、歴史上、どういう意味があるのかということが言われているのも無理もないことであろう。
 考えてみれば、歴史上お人物が暗殺されたり、不慮の事故で死んだりした時というのは、必ず、その裏には、謎が潜んでいて、そこで、
「歴史にもしはないが」
 ということで、いろいろ学者が論文を書いたりしている。
 特に、大きく言われていることとすれば、やはり、暗殺関係がどうしても多い。
 まず、一つ目としては、
「乙巳の変」
 である。
 いわゆる、中臣鎌足と、中大兄皇子による、
「飛鳥板葺宮」
 における、皇極女帝に対しての、隋からの贈り物を献上している儀式において、行われた暗殺事件、いわゆる、
「クーデター」
 である。
 相手は、蘇我入鹿。蘇我氏においての、若きリーダーと言ったところであるが、蘇我氏は当時、先々代の馬子の時代を絶頂として、さらに権力を集中させていた。
 馬子の時代は、ちょうど、厩戸皇子の時代であり、しかも、厩戸皇子が、摂政として君臨していた時の天皇は、蘇我氏の息がかかった、
「推古天皇」
 だったのだ。
 その時代から、ライバルである物部氏を滅ぼし、権力をゆるぎないものにしたことで、蝦夷、入鹿と続く蘇我氏の絶頂の基礎だったといってもいい。
 中臣鎌足としても、蘇我氏の権勢を煙たく思っていて、さらに中大兄皇子としてみれば、蘇我氏が、厩戸皇子の一族である、
「山背皇子」
 を葬って、厩戸皇子の一族を滅亡させたことで。
「次はこの私だ」
 と思っていたことだろう。
 そんな時、
「中大兄皇子が蹴鞠に興じていた時、その靴が脱げ、その様子を伺っていた中臣鎌足が、靴を拾って差し上げたことで、二人の仲が深まった」
 という有名な話があるが、今でいえば、
「ストーカーのようなものだ」
 といってもいいだろう。
 完全に、中臣鎌足の計算通りに計画が進み、二人は刺客を雇って、
「今回の参内は、気軽なものだ」
 といって蘇我入鹿を騙し、剣などの武器を奪っておいての暗殺なので、実に楽だったことだろう。
 しかし、実際には、本当は最初に刺客が切り出した後、二人が最後に飛び出す手筈だったが、刺客が怖気づいてしまい、跳び出さないことから、中大兄皇子が最初に飛び出すことになった。
 武器のない入鹿を討ち取ることは、赤子の手をひねるよりも簡単なことだっただろう。
「帝、なぜに私がこんな」
 といって、駆け寄るのを見た皇極女帝は、中大兄皇子に、
「これはどういうことか?」
 と訊ねると、
「入鹿は、皇室の転覆を計画していた」
 というようなことを言うのだ。
 女帝は、
「まさか自分の目の前で暗殺事件が起こるなど。しかも、その首謀者が自分の息子だなんて」
 と思ったことだろう。
 父親の蝦夷は、山背大兄王を滅ぼした入鹿に対し、
「なんということをしたんだ。お前もただではすまないぞ」
 と警告したことが、現実となった形である。
 それにしても、
「蘇我氏を妬んでいる連中が山ほどいる中で、入鹿も刀を渡すなど、危機感がないにもほどがある」
 というべきであろう。
 確かに蘇我氏というのは、権勢をほしいままにし、ある意味、最初に豪族の中で、最高の権力を持った一族であり、その力は、平安時代における、摂関政治を行った、
「藤原氏」
 に匹敵するといってもいいだろう。
 ただ、皮肉なことに、その藤原氏というのは、この時のクーデターの首謀者である、中臣鎌足の子孫であるというのは、実に皮肉なことであろう。
 ただ、一つ大きな問題は、このクーデターというよりも、
「時代が遡ったのではないか?」
 と言われることであった。
 この後大化の改新が行われ、なかなか律令国家を目指すがうまくいかず、都を50年たらずで、10回近くも遷都するというドタバタ劇を演じたのだから、
「何を改新というのか?」
 と言われても無理もないことであろう。
 蘇我氏は元々、朝鮮半島に対する外交も、
「平等外交」
 を行っていた。
 だから、朝鮮半島の動乱が起きた時、朝廷は、それまでの百済一辺倒の外交をしていたため、滅ぼされそうになっている百済に援助するべく、援軍を差し向けるが、大敗してしまう。
 そのせいで、
「新羅、高句麗連合軍が報復にやってくる」
 という懸念から、大宰府を作り、水城を築いて、侵略に備え化ければいけなくなった。
 そのために、飛鳥から難波に移していた都を、もう一度飛鳥に戻し、その後、信楽や大津などに都を作って、何度も遷都を繰り返すという、いわゆるブサイクなことをしてしまったのだ。
 蘇我氏のように、協調外交をしていれば、
「強いところにつけばいい」
 というだけで、こんなに国内が混乱することもなかった。
 そういう意味で、
「時代が一世紀逆行した」
 と言われるのもそのためだ。
「厩戸皇子の政治を復活させる」
 と言いながら、実際には真逆になってしまったのだから、これこそ、
「あの時、乙巳の変がなかったら?」
 ということが言われるのも当たり前のことであっただろう。

                 城郭公園

 これが古代の。
「もし」
 である、
 では、中世においては、一番の謎と言われるのは、いうまでもなく、前述の、織田信長の暗殺である。
「本能寺の変」
 である。
 信長は改革派の先鋒と言ってもいい。
 誰も考え付かないようなことをやってのけるのが、信長だった。
 子供の頃に言われた、
「うつけ」
 それが、味方も騙すことになり、平手政秀の悲劇を生むことになった。
 というのも、
「信長があまりにも、その行動を正し、大人になろうとしないことを憂いて、自害した」
 と言われていることによるものである。
 ただ、これには諸説ある。
「自害したことに変わりはないが、憂いて自殺をしたというのは、美談としてのものであり、他の説は普通に、不仲説、対立説というものであった」
 ということである。
 ただ、信長は、後世の歴史解釈として、
「宗教団体の疑惑」
 であったり、
作品名:二人二役 作家名:森本晃次