二人二役
相手は袋のネズミも同然なのだから、それを敢えてするということは、相手も必死だし、それだけ籠城には自信があるということではないだろうか。
城の中には、いろいろなトラップが仕込まれている。一番のパターンは、
「狭いところに誘い込んでの、逃げられない状態にしておいて、四方八方から狙い撃ちを行う」
という戦法である。
登城する場合の石段などにも、トラップが仕掛けられている。
わざと、段を不規則にしておけば、相手が登ってくる時に、足元を気にしないといけない状況にしておいて、上から集中砲火を浴びせれば、逃げることはできないという管変え方であった。
それが、戦国時代の戦であり、
「訓勇割拠によって繰り広げられていた日常だ」
といえるのではないだろうか。
だからこそ、城は、
「戦のための要塞」
だといってもいいのである。
したがって、守りに適していた。
「天然の要害」
と言われた山の上に築く、
「山城」
という形式が、最初に作られていったのである。
そのうちに、城のまわりに、濠を気づいたり、石垣や塀を巡らすことで、守りが固められることで、
「平城「
あるいは、丘のようなところに築かれる、
「平山城」
が増えていった。
それらの城はどのようなものであったのかというと、城の敷地内に、たくさんの櫓ができて、本丸があり、そして、途中には武家屋敷などが存在する、
そして、途中から、天守と呼ばれる場所ができてきて、シンボルとして聳え立つことで、いわゆる、
「近代城郭」
と呼ばれる形になってきた。
最初の天守というのは、
「松永久秀の、
「信貴山城」
だと言われてきたが、実際にはその後の発掘調査から、荒木村重による、
「有岡城」
つまりは、
「伊丹城ではないか?」
と言われるようになったようだ。
そこから天守を持った城というのが、主流になっていき、大名としての威厳を示すという意味で、ほとんどの人が勘違いをしているかも知れないが、
「城=天守閣」
という固定観念が生まれたのではないだろうか?
中には、有名な戦国大名でも、
「天守を持たない城」
を根拠地にしている武将もいた。
「人は石垣、人は城」
とまで言った、武田信玄でさえ、城ではなく、自分の根拠地を、
「躑躅崎館」
にしたではないか。
城に住んでいながら、店主が存在しないのは、伊達政宗の青葉城などもそうである。
なぜそのような城にしたのかは分からないが、それも戦国大名の個性というべきで、信長のように、
「城下町を栄えさせる」
という別の目的を持っていたりもした。
信長が一貫していたのは、
「天下布武」
という考え方であった。
「武力を持って、天下を治める」
つまり、武力というものを、ある意味、
「武器や兵の数」
特に、
「鉄砲の数」
だと思っていた。
鉄砲の数ということになると、まず必要なのは、お金である。お金を手に入れるのは、貿易において利益を得ること。だから、城下町を栄えさせ、貿易の中心である、堺を抑える。
境を抑えることで、鉄砲の入手も可能になるということであった。
だから、足利将軍である、足利義昭から、
「副将軍に任命する」
と言われた時、
「そんなものはいらない」
といって所望したのが、堺の港の支配権だった。
義昭は、信長の真意を分かるわけもなく、認めてしまったことが命取り、信長の権力を増大させることになり、結果、
「室町幕府の滅亡」
ということになったのだ。
とは言っても、当時の室町幕府は、本当に名前だけ、戦国大名が天下に号令するための、ただの、
「駒」
でしかなかったのだった。
そんな時代において、信長は、自分たちの時代を築いていった。
信長の強さは、
「武士団の形成」
にあった。
特に、領地を広げ、どんどんまわりに侵攻していこうという目的があったので、信長は家臣団に、それぞれの、
「方面軍」
というものを形成させた。
関東であれば、
「滝川和正」
北陸であれば、
「柴田勝家」
丹波、丹後地方であれば、
「明智光秀」
中国、四国であれば、
「羽柴秀吉」
などと言った信長配下の者たちが、信長のいる畿内を守る形で目を光らせていた。
それが、今まで信長を苦しめてきた、
「包囲網」
に対しての対策だったに違いない。
信長の敵は、宗教団体が多かった。
本願寺の蓮如であったり、浅井、朝倉に味方をした比叡山などと言った寺社などが、信長の敵として君臨した。
しかし信長は、屈することはなかった。
当時の坊主というと、堕落してしまっていて、酒池肉林状態だった僧侶もいるという。しかも、政治には口を出してきたり、昔からの荘園の支配などがあったりと、まったくもって、いただけない状態になっていた。
光秀が信長に、比叡山の焼き討ちを制しようとした時、信長が光秀に言った言葉が印象的であった。
「光秀。おぬしは、比叡山を寺だと思っているのか? 坊主どもは堕落し、人を救うのが坊主の役目だとすれば、この戦国の世は一体なんだというのだ。比叡山は寺ではない。あれは城ぞ。城を攻めて何が悪い。もし、これで地獄に堕ちることがあれば、この俺が、閻魔大王を論破してやるわ」
というようなセリフを吐いたと言われているではないか。
信長は、そう言って。比叡山を焼き討ちし、女を含む比叡山にいた連中を皆殺しにしたと言われている。
それが、光秀による、
「本能寺のへ」
の要因と言われているが果たしてどうだろう?
とにかく、信長という人は、相当な改革はであり、その時代の人のほとんどがついてこれなかったのではないだろうか?
元々、子供お頃から、
「うつけ」
と言われ、織田家内部でも、信長の敵は結構いたと言われているではないか。
それを考えると、信長が天下統一を目前にした時に形成された、
「家臣団」
の中には、元々、信長を敵対視していた人も多く含まれている。
「織田家の筆頭家老」
のように言われている柴田勝家も、元々は、信長の敵であった。戦国時代というのは、どう転ぶか分からないというものだ。
そういう意味では、
「徳川家康にとっての、本多正信」
もそうであった。
元々は、家康を苦しめた、長嶋一向一揆の中にいたのが、本多正信であった。
その後は周知のとおり、
「家康の参謀役」
として、いつも家康夫そばにいるという、家康から、
「絶大なる信頼」
を得ている本多正信ですらそうだったのだ。
「下克上」
と言われるような、
「いつ、部下にとって代わられるか分からない」
という時代に、
「昨日の敵は今日の友」
とできるのだからすごいものだ。
とても、今の令和の時代であれば、損得関係によっての、形ばかりの結びつきにしかすぎないのだろう。
それを思うと、戦国大名というのは、群雄割拠として、絶えず戦争をしている感覚であるが、家臣団との結びつきがどれほど重要なものであるかということを、信長が証明したといっても過言ではないだろう。
そんな時代において、信長はいろいろな改革をした。
城下町においての、
「楽市楽座」
というものがそうである。