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一人勝ち

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 ということになる。
 そして、そうなると、豊臣家は邪魔になる。
 家康としては。
「自分の目の黒いうちに豊臣家を滅ぼす必要」
 に駆られたのだ。
 二条城の会見で秀頼が、秀吉以上の好青年であることを悟った家康は、真剣に豊臣家を滅ぼしにかかる、特に母親の淀君の存在は鬱陶しく感じられたことだろう。彼女に、
「応仁の乱」
 の火付け役となったとされる、
「日野富子」
 を彷彿させるものがあったに違いないのだった。
 そこで、方広寺の鐘の文字を因縁の道具として使い、相手に戦の準備をさせることで、大義名分ができたとして、
「大坂の陣」
 を勃発させる。
 難攻不落とされた大阪城に立てこもることを、必死に解く淀君だったが、あくまでも、不利であった。真田幸村の作戦のように、城から打って出て、ゲリラ戦のような戦いで、いけば、少しは違ったかも知れないが、結果、一度の和睦を境に、家康の策略に嵌り、濠を全部埋められてしまった大阪側は、
「裸城」
 としての大阪城に籠るしかなく、勝ち目はあるわけはなかった。
 それでも、真田幸村、後藤基次軍は勇敢に戦い、力尽きる。
 結果、大阪方は大阪城に火をかけられ、秀頼、淀君は自害ということで、豊臣家は滅亡した。
 それにより、守るべき豊臣家はなくなったことで、徳川家に忠誠を尽くすしか、諸大名の生きる道はなくなってしまったのだ。
 関ヶ原、大坂の陣において滅ぼされた藩にいた武将のほとんどが浪人となって溢れてしまった。それがのちに江戸幕府に問題をもたらすのだが、とりあえずは、徳川の天下が盤石になる足がかりができたということになった。
 二代目将軍秀忠。そして、のちに将軍となる、長男の竹千代改め、三代将軍家光は、徹底的な改易を打ち出した。
 改易というのは、いわゆる、
「お家取り潰し」
 である。
 いろいろな理由があるが、一番の理由は、
「後継者不在」
 であった。
 次に多いのが、
「謀反を企んでいる」
 などというものであるが、特に、武家諸法度に違反したりすると大きな疑惑になるのだ。
 たとえば、大名同士の許しのない婚姻。
「一国一城令」
 を破って、城を新たに建築したり。現存の城を許しなく改修することも許されなかった。
 それらを理由に、幕府から、
「改易」
 を言い渡され、配下の武士がまた浪人となり、いわゆる、
「失業者」
 が、溢れてくるという大きな社会問題になってくるのだった。
 江戸幕府は、当初、幕府の足固めに必死だったといえるだろう。
 そんな時代において、徳川家康を好きな先代は、最初から、
「跡取りは嫡男に決めていた」
 という。
 なぜかというと、これも家康公の考え方である。
 ただ、家康とすれば、跡取りの秀忠は、自分の三男であった。
 長男は、いわゆる、
「築山事件」
 において、嫡男である信康が、自害、築山殿も自害したとされる。
 これは元々、家康の正室が今川家から嫁いできた築山殿と、息子で家康の嫡男である信康に嫌われたと思い込んだ信康の嫁であり、信長の娘であった徳姫が、信長に、
「信康と、築山殿が、
「武田家と内通している」
 などを含めたいくつかの内容の書状を信長に送ったことで、信長から、
「信康を切腹させろ」
 といってきたことで、家康は、信長に逆らえないということで、切腹させることを選んだ。
 築山殿も、自害を拒んだことで、殺されたと伝わっている。
 そんな事件が起こったことから、家康には長男がおらず、次男である、秀康は、秀吉に人質に出され、結城家に養子に入ることになる。家康が、次男を、
「容姿が醜い」
 ということを理由に嫌っていたという話もあり、結局、家康にとっての長男は、三男の秀忠ということになるのだ。
 そういう意味で、家康は嫡男を大事にしようという思いがあるのかも知れない。
 ただ、理由はもちろん、それだけではない。
 跡取りを決めておかずに、もしものことがあった場合というのは、必ずといっていいほど、
「跡目争い」
 というものが起こるのだった。
 特に、城中にいる、役人や、側用人などは、必ずどこかの派閥に属したりしているのは、今も昔も変わらないだろう。
 つまり、跡取りをしっかり決めておらず、中途半端にしておけば、それらの間で、権力争いの道具に使われる可能性があるのだ。
 実際に、三代将軍の時も、国松派と、竹千代派とで、揉めていたのは確かであった。
 家康は前々から、
「跡目争いが、結局、お家騒動になり、幕府の力が弱くなる」
 あるいは、
「諸大名も巻き込んで大きな戦になりかねない」
 ということで、せっかく、
「戦のない世の中」
 を作り、
「元和堰武」
 と呼ばれる、武器をすべて、偃の中にしまい込んで、蓋をすることで、戦のない太平の世を作り上げるということを達成したのに、いまさら蒸し返すようなことはしたくないというのが、本音であろう。
 そのため、家康は、
「代々嫡男が、将軍を継承する」
 ということにしたのだ。
 それでも、長男ができなかった場合、あるいは不幸にも病死した場合などは、次男、三男と行うが、それでもダメな時は、
「徳川御三家」
 と呼ばれる、
「水戸、紀伊、尾張」
 の中から将軍を決めるということまで決めていたのだ。
 八代将軍、暴れん坊将軍、享保の改革で有名な徳川吉宗も、紀伊国の出身である。
 特に国松と竹千代の争いには、感慨深いものがあったに違いない。これには諸説あるのだが、春日局の言い分を認め、将軍を竹千代、つまり、家光にすることに決めたという。
 そんな家康を尊敬していることから、先代は、早々と、
「跡取りは長男の、勉だ」
 と決めていたという。
 そんな勉が、今は36歳、昨年、
「少し早いのでは?」
 と言われていたが、先代の意見もあって、
「若社長就任」
 ということになったのだった。
 自分は、57歳で会長職就任、そういう意味では、社長が若いというよりも、先代が、この年でまだ、社長にしがみついているということの方が、先代の平八郎には気になっているところだったようだ。
 その証拠というべきか、平八郎は、今年になって、つまり社長職を譲り、隠居状態になってから、それまで、病院に行くこともなかった健康状態だったにもかかわらず、今年は、ちょくちょく病院に通っていた。
 最初は、軽い気持ちで、
「人間ドックにでも入ってみるか?」
 ということであったが、医者の方が、
「少し養生された方がいいですよ。どこか、空気のいいところで、のんびりされるようなことをなさってはいかがですか?」
 と進言してくれたのだが、
「いや、私は会社の近くで忙しくしている方がいいんですよ」
 というのだった。
「じゃあ、病院への通院は、定期的にお願いできますか?」
 ということで、次第に会社にいるよりも病院にいることの方が多くなってきたのであった。
 それを聞いた息子たち、
「長男の勉と、次男の幸隆」
 は、父親のことを心配しながら、時々次男の幸隆は病院の父親を見舞っていた。
 長男の勉は、
「社長業が忙しい」
 ということを理由に、病院に顔を出すことはなかった。
 ただ、これは、幸隆の意志というのもあったが、長男の勉の指示であった。
作品名:一人勝ち 作家名:森本晃次