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一人勝ち

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 考えてみれば、歴史上の、後継者問題がどのような事件を引き起こし、さらに、そこから先、時代をひっくり返すような事件に発展したというのを忘れてはいないかということであった。
 後継者争いで戦になったのは、まずは、古代最大の戦争と言われた、
「壬申の乱」
 である。
 中大兄皇子、つまりは天智天皇の後継者を、順番からいけば、弟の、大海人皇子であったが、天智天皇が、息子の大友皇子を皇太子としたことで、大海人皇子は、妻とともに、吉野に逃亡を余儀なくされた。
 そのうちに、天智天皇が亡くなったことで、大海人皇子が吉野を脱出し、当時の都があった大津に攻め込んだのだ。
 それが、
「壬申の乱」
 であった。
 天智天皇が崩御したことで、天皇に即位していた大友皇子は、弘文天皇となっていたが、この壬申の乱にて敗れ、首をつって自害したとされる。
 そのため、大海人皇子が、天皇に即位し、天武天皇になったのだ。
 この時は、大きな問題は起こらなかったが、時は流れ平安時代に突入し、次第に藤原氏の力が衰えてくると、そこに武士が台頭してくることになる、その背景として、院政を敷いていた時代で、崇徳上皇と後白河天皇側に朝廷内が別れてしまい、さらに摂関家の内紛などが重なり、戦となった。天皇方が勝ったのだが、それが火種となり、その後の、
「平治の乱」
 などがきっかけにあり、さらに、武士が力をつけてくることになり、最終的に、武家政権である、
「鎌倉幕府成立」
 という、
「時代が大きく動く」
 ということになったのだ。
 また、時代は流れ、今度は、室町時代の中期、室町幕府の権威が衰えてきている頃、これも、将軍の後継問題と、幕府内での権力争いなどが複雑に絡み合い、今度は全国を東西に分けての戦いが、京の都を舞台に、何と、11年間も続くことになった。
 これが、有名な、
「応仁の乱」
 である。
 この戦では、京の街のほとんどが燃え尽きてしまったと言われているが、戦は勝ったり負けたりの小競り合いが多かったのだが、最終的には、戦の総大将の座にあった、
「細川勝元と、山名持豊(宗全)」
 が、相次いでこの世を去り、さらに、戦を行っていた、守護大名が、自分の領土で争いが起こるようになってくると、尻に火がついたことに気づいた大名たちは、
「京都にとどまって、戦などしている場合ではない」
 ということになったのだ。
 皆地理尻に領国に戻っていったので、そこでもう戦争は終わりだった。
 この戦争の影響で、完全に室町幕府の力はなくなってしまい、
「群雄割拠」
 と呼ばれる時代となり、それぞれの地方では、
「守護大名」
 の代わりに、戦国大名となっていき、いよいよ戦国時代の幕があくのだった。
 戦国大名は、守護大名がそのまま戦国大名になることも多かったが、配下のものが、主君を討ち取って、地域を支配する戦国大名になりあがるという、いわゆる、
「下克上」
 というものもあり、必ずしも守護大名が、そのまま戦国大名になったというわけではないのだった。
 そこで登場してくるのが、
「三英傑」
 と呼ばれる。
「織田信長」
「羽柴秀吉」
「徳川家康」
 であった。
 彼らは、細かいところや性格、やり方に違いこそあれ、その目的は一貫したものだったのだ。
 つまりは、
「戦国の世を終わらせる」
 ということであった。
 信長の場合は、
「天下布武」
 という言葉にあるように、
「武力を持って、天下を治める」
 というもので、特に宗教団体に対しては、恐ろしいほどの執念で立ち向かっていた。
 基本的に、信長は、
「朝廷の力を利用しよう」
 と思っていたのだろう。
 ひょっとすると、頼朝や尊氏のような、武家政権としての、
「幕府」
 というものを作って、自分が商軍になろうとは思っていなかったのかも知れない、
 安土城には、天皇がこられた時の宿泊所も設けてあったようで、ただ、そこを見下ろすように信長は天守に住むということを考えていたことから、
「自らで朝廷を動かす」
 ということくらいは考えていたことだろう。
 では、秀吉の方はどうであろう?
 信長が、
「本能寺の変」
 で討たれた。
 ということを知ってから、いよいよ、天下取りに乗り出すわけだが、あまりにも光秀が討たれたのが早かったことなどから考えて、
「本能寺の変」
 これは、秀吉の黒幕説というのも否めない。
 もっとも、ここまで分かっていたわけではないだろうが、光秀をそそのかすくらいのことはあってもいいだろう。
 もちろん、光秀とすれば、秀吉の命令を聞くわけもないので、それなりの裏ワザがあってのことであろうが、今となっては分からないことが多いので、想像の域を出ないのだった。
 そんな時代を進むことで、秀吉は天下を握り、関白となった。
 藤原摂関家に近づいたわけだが、秀吉にも分かっていたのか、天皇家に近づくといっても、
「貴族化」
 するとどうなるか?
 ということは、歴史が証明している。
 清盛しかり、頼朝だって、あれだけ後白河法皇を警戒していたのに、最期には娘を参内させようとしたではないか。
 そして、さらに、幕府の権威をゆるぎないものにしようと考えて、清盛と同じことをしようとしたのが、足利幕府の三代将軍、義満だった。
 なるほど、義満はその権勢でもって、室町幕府最大の権力を握ったが、死後、急速に衰えていった。
 朝廷に近づいても、貴族化したり、天皇の身内になることで、県政がゆるぎないものにあるということが、夢幻であることを分かっていたのだろう。
 これは、きっと信長が一番分かっていたことではないだろうか?
 信長のそばでずっと見ていた秀吉だからこそ分かることであって、秀吉は冷静に、自分の政権を着実に築き上げていった。
 その証拠に、江戸幕府の基礎は、豊臣政権から受け継いだものが多かった。家康としても、自分が、ほぼ秀吉と同じだけの力を持っていることを自覚し、秀吉のやり方を、一つの教材として学んでいったに違いない。
 いよいよ秀吉も死に、いよいよ自分の時代に入ったことを悟った家康は、豊臣恩顧の大名を潰し、幕府を開くことを考えた。
 秀吉が、一代で滅びゆく運命にあるのは、
「力を自分だけに一極集中したためだ」
 と言えるのではないだろうか?
 後継問題も確かにあるが、幕府のような完全な支配体制を築いていなかった。
 あの室町幕府といえども、各地に大名を置いて、それぞれの要衝に、探題などを置くと言った、鎌倉幕府にならったやり方を確立していたからこそ、名前ばかりではあったが、足利幕府の権力を利用して京に上った信長だったのだ。
 確かに関白といっても、それは天皇や朝廷内での力であって、
「武士をまとめる」
 ということではなかったのだ。
 それを思えば、秀吉は自分の代で終わったといえるだろう。
 そう考えると、
「源氏は3代。足利幕府も、4代目以降は、ほとんど、権力もなくなtっていて、守護の力が強くなっていた。つまりは、幕府を開いても、3代までがいいところなのだ」
 と家康は思っていた。
 そして、幕府を開かなかった秀吉にいたっては、自分の代で終わりだったではないか?」
 そこで、どうしても、
「幕府設立は必須だ」
作品名:一人勝ち 作家名:森本晃次