小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

一人勝ち

INDEX|13ページ/21ページ|

次のページ前のページ
 

 もっとひどいのになると、せっかく薬を抜いたのに、昔の男から、
「いいカモが戻ってきた」
 ということで、再度、無理やりに注射を打たれるなどということもあるだろう。
 そうなると、今度は、その女性は人生に失望し、自殺をするという最悪の形も生まれてくる。
 こんな状況を見ると、
「やくざが許せないのは当たり前のことだが、警察があんな連中をのさばらせておくのが一番悪い」
 といって、その矛先を警察に向ける。
 正直、それも仕方がない。事実として、このような最悪の事件が実際に起こっているのだから、警察は弁明の余地はあいというものだ。
 それを思うと、
「人生なんて、まわりや国家がひどかったら、簡単に影響を受けてしまうに違いない」
 ということになるのだろう。
 高校時代において、精神的に自分が追い詰められている時に、感じていた言葉が、
「四面楚歌」
 だった。
「まわりはすべて敵だらけ」
 中には裏切りもいるだろう。
 そんな状態において考えたのは、
「自分のまわりの近しい人間が、実は、悪の秘密結社のような連中から、自分を苦しめるために、知らない間に、悪の手先と入れ替わってしまっているのではないか?」
 という妄想だった。
 それこそ、
「テレビの見過ぎ」
 と言われるのだろうが、高校時代などでは、こんなこと恥ずかしくて誰にも言えなかった。
「お前気は確かか?」
 と言われるに違いないと思ったからだったが、大学に入ると気が大きくなるからなのか、それとも、
「話題としての自虐」
 ということで、別に恥ずかしさを感じるわけではなかった。
「感覚がマヒして、一周したのかな?」
 と感じるほどであったが、大学というところは、そういう感覚をマヒさせる何かがあるのかも知れない。
 ただ、このような意識のことを、ちゃんと心理学では言われているらしい。
「カプグラ症候群」
 というのだそうだが、いわゆる被害妄想的な発想が、こういうホラーやオカルト、SFチックな発想になるのかも知れない。
 もっとも、これも、20世紀の頃に言われ出したことなので、ごく最近のことであり、やはり、テレビや映画での、SF的な発想が、そういう考えを生むのかも知れない。
 しかも、当時の子供も、ひょっとすると大人も似たような被害妄想があり、
「自分のまわりは敵だらけ」
 という思いが募るのかも知れない。
 自分のまわりが敵だらけに見えてくるようになると、何かを考えても、すべてが悪い方にしか考えられなくなってくる。
 そうなると、どこかのタイミングで、
「俺は躁鬱症なんじゃないか?」
 と思うようになり、一度そう思ってしまうと、もうそれ以外は考えられなくなるというのが、
「躁鬱症の特徴ではないか?」
 と感じるようになってきた。
 ただ、躁状態の時は手放しに気持ちがハイになっているわけでも、鬱状態の時は、絶えず苦しい状態から抜けられないとして、気分は最悪になっているのかも知れない。
 特に、躁鬱状態の時というのは、躁状態の時には、これからやってくる鬱状態に思いを馳せてしまったり、逆に、鬱状態の時に、
「二週間の我慢だ」
 と大体のパターンから、抜ける時期が分かっているので、必要以上の辛さを感じることはないのだ。
 それが、彼岸の時の、
「暑さ寒さも彼岸まで」
 と言われるような、季節が巡回するかのような時には、
「最悪の時にいいことを、いいことが続いている時に、不安を感じるという要素になるのではないか?」
 と言えるのではないだろうか?
「頭の中を少しでも、平均的にならそう」
 という考えがあるからではないかと思うのだが、それが、
「限界を知りたくない」
 という思いがどこかにあるからではないかと思うのだ。
 その限界は、いいことであっても、悪いことであっても同じだ。
 悪いことの限界を知ると、
「そこが地獄であって、二度と這い上がることができなければ恐ろしい」
 という思いと、逆に、
「天国であれば、すぐに夢のように覚めてしまい、まるで夢を見たと思って、実際の夢のように、一度見てしまったことを、意識してしまうと、二度と見れなくなってしまうのではないか」
 という意識に駆られるからではないだろうか?
 それを思うと、社会人になっても、学生時代の気持ちが残っていて、
「学生気分が忘れられないのか?」
 と言われている社員の姿を見てきたが、それを見ていて、
「それの何が悪いんだろう?」
 と、勉は思うようになってきた。
 勉は、大学時代、結構。
「やんちゃ」
 だったといってもいいだろう。
「法に触れるようなひどいことをしていない。だから別に悪くないんだ」
 という感覚でいた。
 逆にいえば、
「警察に捕まるようなことさえしなければ、許される」
 というような気持ちになっていたというのも事実であった。
 そういう意味で、よくある、
「金持ちのボンボンのおいた」
 というような、昭和の言葉を借りるとそういうことなのだろう。
 それをもみ消してきたのが、先代の参謀であった、小平修平だったのだ。
 まだまだ、父親の平八郎が、活躍している中で、子供たちのスキャンダルは命取りだ。何かあれば、必死になって、社長の参謀が火消しに躍起になるというのは、今に始まったことではない。
 さすがに、婦女暴行や、殺人事件に繋がるような、
「ヤバい事件」
 を引き起こすようなことはなかったが、いわゆる、
「金で解決できる」
 というようなことは、いくらでもやっている。それが、
「おいた」
 と言われるものなのだろう。
「おいた」
 というと、
「女の子を妊娠させてしまった」
 ということも少なくはなかった。
 中には、わざと妊娠したなどと言って、お金をふっかけようとしている連中もいただろう。
 むしろ、そっちの方が多かったのかも知れない。
 なぜなら、
「こんな軽い男、誰が真剣になんかなるもんですか」
 と普通の女だったら、こんな曲がった考えの男に靡くはずがない。
 ということであった。
 要するに、大学に入って、気が緩んだのか、
「何をやっても許される」
 というような勘違い野郎が多い大学生の中で、特に彼の周りにはそんな連中ばかりが集まってくるのである。
 だから、一時期、躁鬱症に陥ったのだった。
「俺のことを気に入って集まってくるわけではなく、皆、お金が目的なんだ」
 と、思うようになったから躁鬱症になったのだ。
 しかし、そのことにも発想が慣れてくると、
「まあ、いいや、それならそれで、俺の方も楽しませてもらおう」
 と思ったのは、自分が本当に、金の力で解決できる立場にいることで、気が楽になってきたからであろう。
 実際に、家に帰ると、
「無駄なもの」
 と思えるようなものが、屋敷の中にはいたるところにある。
 昔だったら、
「古風なコレクションが、金持ちのステータスだ」
 といって、伯爵などの屋敷には、いろいろな珍しいものがあったりしたものだった。
 絵画であったり、昔の狩猟の道具、あるいは、中世の甲冑など、等身大のものが置かれていれば、そのまま、ステータスだった。
「まるで博物館のようなお屋敷で」
 などと言われると、本当に嬉しい気分になるものだった。
作品名:一人勝ち 作家名:森本晃次