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一人勝ち

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 と呼ばれる戦いがあったのだが、
「桶狭間の戦い」
「厳島の戦い」
「河越野戦」
 というものだった。
 この中の、
「厳島の戦い」
 というものが、
「大は小を兼ねる」
 とは、一概に言い切れないkとを証明していた。
 もちろん、これは偶然に起こったことではなく、大将の毛利元就の最初からの作戦計画の根底として考えられたことであった。
 彼は、敵である陶晴賢に対し、
「元就が、厳島の山頂に、城を築いている」
 というウワサを流させ、実際に城を築き始めたのだ。
 この頃になって、大内家の支配が急速に落ちていた時、陶晴賢は、下克上を狙っていた。毛利元就は、そんな陶晴賢に味方しないということで、一触即発状態になったことで、この作戦を考えたのだ。
 厳島というくらいなので、島なのだ。陣地も戦をする場所も限られている。そこで考えたのが、
「相手をおびき寄せる」
 ということであった。
 しかも、大軍をおびき寄せるのだ。
 そうなると、狭い島に大軍が押し寄せるのだから、身動きができるわけもなく、混乱するというのが、作戦だったのだ。
 その作戦が見事に功を奏し、陶軍は混乱の極みにあり、ついに、陶晴賢を討ち取り、その勢いで、毛利元就は、一気に中国地方を制圧することに成功したのだ。
 その後、参院の尼子氏も滅ぼして、今でいう。山口、広島、岡山、島根、鳥取という膨大な領土を持つに至ったのだ。
 その領地は、関ヶ原で西軍について、敗北するまで変わらなかった。毛利は、すでに大大名となっていたのだ。
 そんな、
「厳島の合戦」
 の教訓を思い出していると、
「俺は、毛利元就にならなくてはいけない」
 という風に思い、無駄に友達を増やすことだけはしないようになった。
 しかし、寄ってくる人を排除するだけの気持ちはなかった。
 社長の後継者という意識があるからなのか、
「寄ってくる人間に対して、ひどい仕打ちをしてはいけない」
 と考えるようになった。
 特に、高校時代において、
「俺は暗く、まわりを皆敵だと思い、そのために、完全に殻に閉じこもってしまった」
 というトラウマがあることから、
「俺は、人にひどい仕打ちをしてはいけない」
 と思うようになった。
 そのためには、自分の気持ちに余裕を持たなければいけない」
 と考えるようになったのだが、それが、半分間違いだったのだ。
「変に気を遣おうとするから無理が来るのだ」
 と思っていた。
「変に気を遣うというのは、無理に流れに逆らおうとするからで、今まで逆らってきた時というのは、自分に余裕がなくなったことで、自分が楽をしようとすると、ハマってしまった沼から抜け出せなくなる」
 という気持ちがあったからだ。
 沼に嵌ってしまうと、息ができなくなり、苦しみながら死んでいくことになる。
 その時間というのは、見ている人間にとってみれば、あっという間のことなのだろうが、実際に味わっている人からみれば、
「とてつもなく苦しいもので、きっと心の中で、一思いに殺してくれと思っているのではないだろうか?」
 と感じているのではないかと思うのだ。
 確かに、
「楽しいことはあっという間なのに、苦しいことやつらいことは、永遠に続くような気がする」
 とよく言われるが、まさにその通りなのだろう。
 変に気を遣っていると、その思いから、楽なことと苦しいことの差の激しさに気づくのだった。
 それに気づいたのは、
「やっぱり、俺が躁鬱の気があるからなんじゃないかな?」
 と感じ始めた。
 躁鬱というのは、誰にでもあるものではないと最初の頃は思っていて。
「しかも、俺の躁鬱はその中でも特殊なんだ」
 と思っていた。
 だが、これはいろいろな意味で間違っている。
 躁鬱は特殊な人間だけのものではなく、大小の差はあるが、誰にでもある、潜在的なものだということである。
 さらに、
「自分だけが特別」
 というのも、勘違いであり、
「ただの重症」
 というだけではないだろうか?
 重症と言っても、あくまでも、
「気の持ちよう」
 であり、余計なことを考えてしまうことで、深みに嵌ってしまうのだということに気づくか気づかないかということなのであった。
 高校時代の自分が、深みに嵌ってしまったのは、
「とにかく、自分を他人と比較する意識が強すぎて、自分が、まわりから必要以上に見られてしまっているからではないか?」
 と考えたからだった。
 大学時代には、その思いが和らいでいった。
「何をやっても今なら許される」
 という大きな思いが自分を包む。
 もちろん、犯罪行為は論外だが、自分でしたいと思っていることをする分には、別に問題はないと思われるのだった。
 ただ、勉は、それが歯止めが利かなくある要因であるということに気づかなかった。
「まるで、麻薬のようだな」
 と、一度嵌ってしまうと抜けられないという感覚に陥るのだ。
 麻薬は、
「そうして辞められないのか?
 というと、もちろん、禁断象徴における苦しさもあるだろう。
 しかし、禁断症状というものがなかったとして、本当にやめることができるだろうか?
 麻薬というのを、最初に手を出した時の理由は様々だろう、
 その中には、
「芸術家」
 特に、創作者と呼ばれるような人は、いつも何かが降りてきて、そこからいろいろな発想が芽生え、覚醒していく。
 しかし、それはバイオリズムのいい時はうまくいっているに違いないのだが、一旦狂ってしまうと、押しても引いてもアイデアが生まれてくるものではない。
 そうなると、
「そのアイデアを、苦しまずに覚醒させる何か」
 を求めることにある。
 それは、
「覚せい剤」
 などの、麻薬なのだ。
 しかも、薬物は、覚醒している時は、一切眠くならないということで、一気に爆発させることができて、
「気がついたら、作品ができていた」
 などということになるだろう。
「麻薬は怖い者だ」
 ということは分かっている。
 昔のCMで、
「覚せい剤やめますか? それとも、人間やめますか?」
 などという恐ろしいものがあったということは知っていた。
 さらに、覚せい剤というものが、本当に高価なもので。暴力団の資金源になっているということもあって、覚せい剤を一度摂取すると、逃げられなくなる。
 やくざからの追手というのもあるだろうが、そもそも麻薬には常習性がある。
 悪魔のような苦痛を、禁断症状という形で味わって、やっと薬が身体から抜けていくのだ。
 禁断症状は、人間が廃人になる寸前を見ているようで、普通の精神状態であれば、苦しんでいる人間を見ていることでさえ、苦痛でしかないのだ。
 それなのに、何とか薬を抜くことができて、それ以降、普通の生活に戻ることができた人がそれほどいないのも事実だった。
 またしても、
「薬に手を出す」
 ということになり、また同じ生活に逆戻りである。
 確かに、
「意志が弱い」
 と言ってしまえばそれまでだが、戻るには理由があるだろう。
 芸術家であれば、またあの生みの苦しみを味わうことにあり、
「それならば」
 とまた、同じ道を繰り返すことになる。
 これを、
「意志が弱い」
 といって、一言で片づけられるだろうか?
作品名:一人勝ち 作家名:森本晃次