タマゴが先か……
そこを怠ると、せっかく戦前に、どんなに必勝の作戦を練っていても、最終的に、味方に、
「裏切り」
が出てしまっては、どうにもなるものでもないだろう。
そのことは、結構皆分かっていることなので、必死になって行われる。
さらに、これが、純樹国家による戦争などともなると、
「民衆を味方につけておかないといけない」
ということになり、いわゆる、
「プロパガンダ政策」
という宣伝を行うという政策をとることの必須である。
プロパガンダを行うには、いかに相手が悪で、こちらに正当性があるかということを訴えるのだ。
そうでもしないと、民衆で、
「戦争が好きだ」
という人は、そうはいないだろう。
皆、平和を願って、穏やかに暮らしたいと思っているのだが、その平穏な生活を乱そうとしている連中の存在を明らかにすれば、いくら戦争が嫌いだといっても、しなければいけないものであるとして、民衆も参戦に靡くことだろう。
「民衆を味方に引き入れ、戦争への参戦を民衆に納得させるため、相手に先制攻撃をさせ、民衆の気持ちを、一気に参戦に導き出す」
というやり方の一番の代表例が、かつての、アメリカ大統領であった、
「フランクリン・ルーズベルト」
が画策し、日本政府、日本軍が、まんまとその作戦に引っかかったという、
「日本海軍における真珠湾攻撃」
がその象徴であろう。
本来なら、陸軍国である日本が、時を同じくして行った、
「マレー上陸作戦」
というものよりも、真珠湾攻撃の方が大きな印象を与えているのは、そのためではないだろうか。
マレー上陸作戦も大成功を収めている。そこから進軍し、要塞化していたシンガポール効力。そして、最大の目的であった、
「インドネシアの油田地帯の攻略」
も、完全に成功したのであった。
ただ、日本軍は、
「勝ち続けた」
ということによって、本来の目的である。
「連戦連勝を重ね、キリのいいところで、講和に持ち込み、一番いい条件で、戦争を通決させる」
とことであったにも関わらず、
「矛の収めどころ」
というものが分からずに、ズルズルと戦争を継続させることになった。
当時並行して行われていた。
「シナ事変」
というものでも、結果として、ズルズル奥地に入りこなされることによって、
「戦局が伸び切る」
ということになるのだった。
戦局が伸び切るということは、
「戦争において必要な物資の輸送が、どんどん困難になる」
ということでもある。
しかも、相手の土地を攻略するということは、相手も戦っている兵士がいることになり、大量の捕虜を抱えることになるのだ。
ただでさえ、日本兵の食料もままならない状態で、
「いかに捕虜の分まで賄わなければならないか?」
ということを考えると、戦局が伸び切るということは、ある意味、
「自分の首を絞める」
ということであり、戦争を膠着状態にしてしまい、消耗戦においては、圧倒的に不利であったのだ。
それが、戦争における一番の戦術的な敗因であったといえるだろう。
戦略的な失敗というのは、いうまでもなく、
「戦争を終結させる機会を見誤った」
というべきであろうか?
戦争に、
「もし」
というのはあってはならないことなのだろうが、
「もし、あの時、講和に持ち込んでいれば」
と思うと、悔やんでも悔やみきれないだろう。
しかし、ここでも、マスゴミの存在が大きくなる。
最初に戦争を煽って、
「我々の戦争は、アジアを欧米の支配から解放する」
という、まるで、
「聖戦」
のようなスローガンを持ってのことで、開戦当時は、参戦一色で、
「欧米討つべし」
であったが、今度は、戦争に勝ち続けると、戦果を大々的に宣伝し、これでもかとばかりに国民を誘導する。
それによって、国民の戦争への意欲は、決定的なものになった。そのせいで、日本は当初の、
「キリのいいところで講和に持ち込む」
ということができなくなってしまったのだ。
そんな消極的なことをしてしまうと、ポーツマス条約において、賠償金が取れなかったということで、軍隊が出動し、日本初の、
「戒厳令」
が敷かれた、あの
「日比谷公会堂焼き討ち事件」
が思い出されることであっただろう。
しかも、最初のマスゴミによる誘導が、あまりにも強烈だったこともあって、
「もう戦争を終わらせることは、できなくなった。そうなると、世論、つまりは、国民を敵にまわすということになる」
ということであった。
しかし、何よりも、連戦連勝であるがゆえ、
「ここで戦争を辞めるとなると、我々の命が危ない」
として、政府も及び腰になるだろう。
軍が、前のめりであることから考えても、まず無理なことであった。
そうなると、もう突っ走るしかない、国民を、
「煽って煽って煽りまくって」
という必要があるため、負けていても、
「勝った勝った」
といって、国民を欺くしかなかった。
裏切者
情報統制派軍が行ったので、政府要人がその事実を知るのは、かなり後になってからだろう。
それだけ、当時の日本は戦争機運であり、大日本帝国の性質上、
「政府は、軍のやり方に口を出すことはできない」
ということであったのだ。
つまり、
「裏切り」
というのは、基本的に、戦時において、有効になるものだ。
それは、実際の国家間の戦争であっても、テロのような一方的な攻撃であっても、個人間同士の諍いであっても、人が絡めば、そこに必ず、
「裏切り」
というのは発生するものに違いないのだった。
そんな中において、
「裏切り者」
がいるとすれば、
「裏切られる者」
がいるということだ。
日本人は、
「判官びいき」
ということもあるので、どうしても、
「裏切り者」
という方が白い目で見られる傾向にある。
時代が確かに証明しているが、その大きいものとして、関ヶ原での、小早川秀秋などが、その典型であろう。
しかし、裏切りという意味でいけば、亡き豊臣秀吉にしてみれば、
「徳川家康こそ、裏切り者だ」
ということになる。
しかし、これは、豊臣秀吉から見ればということになるのであって、徳川方から見れば、
「いよいよ、待ちに待った時代の到来だ」
ということになる、
しかも、豊臣方として兵を挙げたのが、石田三成、奉行として、内政にての第一人者だったことで、朝鮮出兵を命じられた、
「武功派」
である、加藤清正、福島正則、黒田長政らなどからすれば、面白くない存在だ。
しかし、これは一種の分業制であり、武功派が、内政の長である人間を恨んでも、逆恨みというものではないだろうか?
家康は罠を仕掛け、上杉征伐をもくろんで、その間に三成が兵を挙げるのを待って、取って返して、大義名分ができたことで、取って返して、戦ができるということになったのだ。
その際に、黒田長政の説得で、
「西軍を裏切る」
という密約を交わしたのは、何も小早川秀秋だけではない。
「朽木、赤座、脇坂隊」
なども、秀秋の裏切りを見て、裏切っているのだ。
秀秋軍が、大きかったのと、最初に動いたことで、
「裏切り者」