タマゴが先か……
もっとも、コウモリによっては、集団で行動いているともいわれるが、見ている限り、集団で行動しているようには思えない。
ここから、先は正直、証明されたことでもないので、あくまでも想像であるが、コウモリには、基本、仲間はいないように思われた。
しかし、そんなコウモリの、自分たちでその存在を知らないが、
「結果的に、自分たちを助けてくれる存在がある」
ということに気づいているのだろうか?
元々は、コウモリと生態系が似ていて、しかも、形などから、
「コウモリと見分けがつかない」
と、他の動物から思われているものがあった。
人間から見れば、
「まったく別の動物である」
ということは理解できるようなのだが、その動物を、コウモリ自身が把握できているのだろうか?
ただ、人間には、見分けがつくのであろうが、その存在をいまだ分かっていないのだった。
つまり、その動物の存在自体を人間が把握していない。
人間以外の動物は、動物における本能において、そのことを悟ることができるのであろうが、人間は、そこまでの本能を持ち合わせていないので、存在すら分かっていないのだった。
ただ、最近、その存在に気付き始めた生物学者もチラホラといた。それを証明できないことで、学会でも発表がなされないだけで、そのうちに、その存在を研究している人たちがいることが、ある雑誌の特集で載ったのだ。
「コウモリを彷彿させる、謎の動物」
と題された特集であった。
内容としては、
「コウモリという存在を、解明するために、重要な存在を、大発見につなげることができるのか?」
というタイトルで書かれたものだった。
しかし、あまりにも奇抜な内容だったので、読者もいまいち飛びついてくることもなかった。
さらに、肝心の生物学会からも、クレームがついていた。
「我々は、そのような生物の存在を認めたわけでも、研究しているわけでもないので、世間を騒がせるような、そんな報道はやめていただきたい」
というものであった。
「実際に、生物学会からそれなりの発表があったわけではないので、そもそもがフライングの記事だ」
ということである。
だから、記事を出した出版社も、このクレームは想像していて、
「学会からクレームがあった時は、記事の差し止めと、謝罪を載せる」
ということで、見切り発信したものだった。
ただ、クレームがあったことで、却って、
「怪しい」
ということを、その出版社に想像させたのは、出版社とすれば、
「肉を切らせて、骨を断つ」
というような、ある意味、
「捨て身戦法である」
と言ってもいいだろう。
実際の記事であるが、
「コウモリというのは、目が見えないことで有名で、そのために、超音波を出して、その反射で、相手の存在を知る」
とは、一般的に知られていることであった。
しかし、本当にそれだけのことで生きていけるというのだろうか?
そもそもは、
「卑怯なコウモリ」
として、
「まわりの動物を欺いてきたことの報復として、まわりとの関係を隔絶され、誰にも関わることなく生きていくことを定めとされたコウモリであったが、それが永遠のものだということなのか、それとも、バツというのが、どれほどのものなのかというのも、曖昧なものである」
と言えるのではないだろうか?
もっといえば、
「そもそも、コウモリに罰を与えたのは、誰何か?」
ということである。
罰を与えることができる立場があるとすれば、
「神様」
ということになるだろう。
ギリシャ神話なのだろうから、
「オリンポスの十二神?」
ただ、オリンポスの十二神は、人間に大しての神で、別物の神ともなるとどうなるのだろう?
「全知全能の神」
ということで、ここでゼウスが登場するということであろうか?
ただ、ゼウスも人間だけで大変なのだろうから、別の神がいるということになる。
その神は、人間には認識できていない神であり、それは、
「人間とは関係のないところで動いている」
と言われる神だからである。
つまりは、
「コウモリを助ける存在」
と言われる動物が、人間に対して、その存在が分からないということは、
「その動物は人間に何か影響のある存在ではない」
ということになるのだろう。
人間にとって、動物は、
「生態系」
という意味において大切なものである。
人間が生きていくうえで、動植物などの存在は、人間をその生存を保証するために作られる、
「生態系」
と呼ばれるサークルがある。
だから、そのバランスが崩れるとそれぞれの生存が危うくあり、全滅の危険性があるのだ。
つまり、動物が減ると、人間の食べ物がなくなってしまう。
植物が減ると、動物の食物がなくなり、生きていけなくなる、そうなると、動物が減ると、食物が生存できなくなる。
などというサークルを描く。
さしずめ、
「サークルトライアングル」
とでもいえばいいのだろうか?
いわゆる、
「三すくみの関係」
と言ってもいいかも知れない。
じゃんけんであったり、
「ヘビ、カエル、ナメクジ」
のような関係であり、これらの関係を考えた時、
「ヘビが自分の尻尾かあら、自分を飲み込もうとした時、どうなるというのだろうか?」
ということに似ているだろう。
「最後には、頭だけが残ってしまう」
ということなのだろうか?
と思えてならない。
要するに、その存在が果たしてどういうものなのかということが分からないのであった。
人間において、そこまでは、理解できているものであるが、
「人間に関係のない存在の生物は、知られていない」
ということについて、今まで考えた人はいないのではないかと思わる。
つまりは、保護色のようなもので、動物が保護色を使って、
「外敵から身を守る」
というそんな意識が、人間の意識を上回ったといってもいいだろう。
人間の意識は、どこまでがありうることなのか分からないが、人間において、
「他人事」
という意識は、太古の昔から、こうやって気づかないところで育まれてきたのではないだろうか?
ということで、
「人間にとって、コウモリという存在は、自分たちの教訓を示すという意味で、その存在を認識しないわけにはいかない」
という存在である。
もし、それがなければ、その存在を知らなかったかも知れない、
それは、
「コウモリという存在が、人間が生きていくうえで、必ず必要になるからだ」
ということが言えるだろう。
だから、わざわざ、童話の話の中に、コウモリの存在を描いたというのか。
確かにコウモリという存在は、人間への教訓、戒めとしては、ちょうどいい存在であろう。
日和見的な、
「あっちについたり、こっちにつく」
と戦においては、必ず、どこかで起こる、
「裏切り」
というものは、切っても切り離せない存在ではないだろうか?
しかも、その裏切りというのも、
「諜報活動」
という形で、戦が始まる前に、
「裏切るように交渉をする」
ということが行われるのだ。
「前哨戦」
と言ってもいいだろうか。