タマゴが先か……
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年9月時点のものです。凶器の入手に関しては、適当に書いていますが、これは、小説がフィクションであるということで、ご容赦ください。ちなみに、山中幸盛は、「鹿之助」で統一しましたので、ご了承ください。
卑怯なコウモリ
「俺は弱虫だから、すぐ、相手に靡くような素振りをして、その場を受け流すようなことばかりをしているんだ」
といって、相手は女性であるが、そんな弱みを見せる相手は、実際には今までいなかった。
なぜそんなことになるかというと、普段は、平然としているのに、急に寂しくなったり、何事の億劫になったりする性格が災いしているのではないだろうか?
自覚として、最近、
「俺は、自己顕示欲が強いのかも知れないな:
と考えるゆえんであろうか。
自己顕示欲というのが、言葉でいうと難しいのだが、それが実際にどういうことなのか、考えてみるが、よく分からない。
「目立ちたがり屋のようなものなのかな?」
と思ったが、
「目立ちたがり屋というのは、自覚がないから、目立とうということを平気でできるんだろうな」
と最近、思うようになった。
しかし、自己顕示欲というものを感じると、自己顕示欲を一度感じてしまうと、自覚から離れることはないような気がする。目立ちたがり屋と、自己顕示欲の強い人間との違いは、この、自覚の有無にあるのかも知れないと思うのだった。
「弱虫」
という言葉も曖昧なもので、
「自分で思っているよりも、まわりはそこまでは思っていないという場合、逆に、まわりがこちらのことを、弱虫と言っているのを伝え聞いた時は、逆に、自分に意識がない時の方が多い」
と思うのであった。
弱虫というと、ネガティブな印象が多いが、人によっては、同情的に見てくれる人が多いだろう。
特に、自分からいうのは、
「自虐的」
ということで、余計な同情を感じさせるのかも知れない。
つまりは、
「皆が、自分の中に、自虐性を持っていることで、「私も、俺も」という発想を持っていることで、何かをアピールしたいという思いがあるのかも知れない」
と感じていたのだ。
もっといえば、
「そういう考え方の仲間のところにしか入らない」
という性格になるのだろうが、えてして、そういう性格の人間が、むしろ集まるといっても過言ではないだろう。
そんなことを考えると、
「弱虫だから許される」
という理論が、当たり前のことのように考えられているが、果たしてそうであろうか?
決して、
「弱虫がいいことだ」
などという発想が蔓延っているわけではないし、かといって、その言葉を額面通り受け取って、
「弱虫だから、人間的にも弱いんだ」
というのは、早急な考えなのかも知れない。
「弱い人間はどのようにして、その場を乗り越えなければいけないというのか?」
ということを、どうしても考えてしまう。
その考えの中で、よく言われているのは、
「日和見的な人間だ」
と言われることがある。
この話で一番有名なのは、イソップ寓話のなかでよく言われている。
「卑怯なコウモリ」
という話であった。
卑怯なコウモリという話は、
「鳥と獣が戦いをしているところに、コウモリが出くわすのだが、鳥に対しては、自分は羽根が生えていることから、自分を鳥だといい、獣に対しては、自分の身体は毛だらけだからということで、獣だといい、うまく立ち回っていた」
という話である。
そのうちに、闘いは終わり、鳥と獣が戦をやめると、今度は、コウモリのことが話題になった。
そこで、それぞれに、どのように言って、都合よく逃げ回っているということで、
「あいつは卑怯な奴だ」
ということになった。
それにより、鳥からも獣からも相手にさせず、のけ者にされたことで、
「湿気の多い、洞窟という環境の悪いところで密かに暮らすようになる。しかも、行動範囲は、夜に限られ、人目を忍んで暮らさなければいけない」
ということになったという。
だからなのか、コウモリというのは、目が見えないというではないか。
超音波をぶつけた相手が音の戻ってきたことで、距離や形状を知ることができるという生き物であった。
しかも、コウモリというのは、日和見的な性格であるということからも、昔から、
「うまくいって、敵同士の間をうまく立ち回るということの代表でもあるか」
のように言われている。
昔の、マンガブームの初期の頃には、結構、初期のロボットマンガやアニメが流行ったが、
「勧善懲悪」
というイメージが強いことで、勧善懲悪の敵として引き合いに去られる組織なのの中で、よく出てくるとのが、この
「コウモリ的」
な人物であった。
そういう意味では。
「一番人間臭い」
といってもいいのではないだろうか?
人間臭いということは、神話などに出てくる、神様にも言えることであった。
例えばギリシャ神話に出てくる、
「オリンポスの十二神」
もそうではないか。
「全知全能の神」
と言われるゼウスであっても、人間の姫に恋をすると、人間の姿にあり、まぐあったり、普通にしているではないか。
しかもひどい時は、その娘がどこかの王女であれば、そこの国王が、産まれてきた子供を葬ろうとすると、その国ごと滅ぼそうとする。
さらに、ゼウスと関係のあった、複数いる女神は、嫉妬からか、今度は、その人間の女に呪いを掛けたりしたりする。
つまりは、神の勝手な都合で、人間世界をかき回しているのが、当たり前というのがギリシャ神話である。
そこが、聖書などとは少し違っている。
神は存在するが、神が私的な恨みなどで、行動を起こすわけではない。
あくまでも原因は人間側にある。
「ノアの箱舟」
「ソドムの村」
「バベルの塔」
と言った話も、あくまでも、個人的な恨みなどではなく、
「自分たちが作った人間」
を、勧善懲悪の意味を持って、そこまでしないと、人間は変わらないということなのか、完全に、完膚なきまでに葬り去るというやり方であった。
そんな卑怯なコウモリとは別に、コウモリを助ける存在があったことを、誰も知らない。
コウモリというのは、いつでも、どこでも孤独である。コウモリ以外からは、皆ハブられる存在であるし、コウモリの仲間でも行動を共にしていないように思われる。
そんなコウモリはいつも孤独であった。
卑怯なコウモリ
「俺は弱虫だから、すぐ、相手に靡くような素振りをして、その場を受け流すようなことばかりをしているんだ」
といって、相手は女性であるが、そんな弱みを見せる相手は、実際には今までいなかった。
なぜそんなことになるかというと、普段は、平然としているのに、急に寂しくなったり、何事の億劫になったりする性格が災いしているのではないだろうか?
自覚として、最近、
「俺は、自己顕示欲が強いのかも知れないな:
と考えるゆえんであろうか。
自己顕示欲というのが、言葉でいうと難しいのだが、それが実際にどういうことなのか、考えてみるが、よく分からない。
「目立ちたがり屋のようなものなのかな?」
と思ったが、
「目立ちたがり屋というのは、自覚がないから、目立とうということを平気でできるんだろうな」
と最近、思うようになった。
しかし、自己顕示欲というものを感じると、自己顕示欲を一度感じてしまうと、自覚から離れることはないような気がする。目立ちたがり屋と、自己顕示欲の強い人間との違いは、この、自覚の有無にあるのかも知れないと思うのだった。
「弱虫」
という言葉も曖昧なもので、
「自分で思っているよりも、まわりはそこまでは思っていないという場合、逆に、まわりがこちらのことを、弱虫と言っているのを伝え聞いた時は、逆に、自分に意識がない時の方が多い」
と思うのであった。
弱虫というと、ネガティブな印象が多いが、人によっては、同情的に見てくれる人が多いだろう。
特に、自分からいうのは、
「自虐的」
ということで、余計な同情を感じさせるのかも知れない。
つまりは、
「皆が、自分の中に、自虐性を持っていることで、「私も、俺も」という発想を持っていることで、何かをアピールしたいという思いがあるのかも知れない」
と感じていたのだ。
もっといえば、
「そういう考え方の仲間のところにしか入らない」
という性格になるのだろうが、えてして、そういう性格の人間が、むしろ集まるといっても過言ではないだろう。
そんなことを考えると、
「弱虫だから許される」
という理論が、当たり前のことのように考えられているが、果たしてそうであろうか?
決して、
「弱虫がいいことだ」
などという発想が蔓延っているわけではないし、かといって、その言葉を額面通り受け取って、
「弱虫だから、人間的にも弱いんだ」
というのは、早急な考えなのかも知れない。
「弱い人間はどのようにして、その場を乗り越えなければいけないというのか?」
ということを、どうしても考えてしまう。
その考えの中で、よく言われているのは、
「日和見的な人間だ」
と言われることがある。
この話で一番有名なのは、イソップ寓話のなかでよく言われている。
「卑怯なコウモリ」
という話であった。
卑怯なコウモリという話は、
「鳥と獣が戦いをしているところに、コウモリが出くわすのだが、鳥に対しては、自分は羽根が生えていることから、自分を鳥だといい、獣に対しては、自分の身体は毛だらけだからということで、獣だといい、うまく立ち回っていた」
という話である。
そのうちに、闘いは終わり、鳥と獣が戦をやめると、今度は、コウモリのことが話題になった。
そこで、それぞれに、どのように言って、都合よく逃げ回っているということで、
「あいつは卑怯な奴だ」
ということになった。
それにより、鳥からも獣からも相手にさせず、のけ者にされたことで、
「湿気の多い、洞窟という環境の悪いところで密かに暮らすようになる。しかも、行動範囲は、夜に限られ、人目を忍んで暮らさなければいけない」
ということになったという。
だからなのか、コウモリというのは、目が見えないというではないか。
超音波をぶつけた相手が音の戻ってきたことで、距離や形状を知ることができるという生き物であった。
しかも、コウモリというのは、日和見的な性格であるということからも、昔から、
「うまくいって、敵同士の間をうまく立ち回るということの代表でもあるか」
のように言われている。
昔の、マンガブームの初期の頃には、結構、初期のロボットマンガやアニメが流行ったが、
「勧善懲悪」
というイメージが強いことで、勧善懲悪の敵として引き合いに去られる組織なのの中で、よく出てくるとのが、この
「コウモリ的」
な人物であった。
そういう意味では。
「一番人間臭い」
といってもいいのではないだろうか?
人間臭いということは、神話などに出てくる、神様にも言えることであった。
例えばギリシャ神話に出てくる、
「オリンポスの十二神」
もそうではないか。
「全知全能の神」
と言われるゼウスであっても、人間の姫に恋をすると、人間の姿にあり、まぐあったり、普通にしているではないか。
しかもひどい時は、その娘がどこかの王女であれば、そこの国王が、産まれてきた子供を葬ろうとすると、その国ごと滅ぼそうとする。
さらに、ゼウスと関係のあった、複数いる女神は、嫉妬からか、今度は、その人間の女に呪いを掛けたりしたりする。
つまりは、神の勝手な都合で、人間世界をかき回しているのが、当たり前というのがギリシャ神話である。
そこが、聖書などとは少し違っている。
神は存在するが、神が私的な恨みなどで、行動を起こすわけではない。
あくまでも原因は人間側にある。
「ノアの箱舟」
「ソドムの村」
「バベルの塔」
と言った話も、あくまでも、個人的な恨みなどではなく、
「自分たちが作った人間」
を、勧善懲悪の意味を持って、そこまでしないと、人間は変わらないということなのか、完全に、完膚なきまでに葬り去るというやり方であった。
そんな卑怯なコウモリとは別に、コウモリを助ける存在があったことを、誰も知らない。
コウモリというのは、いつでも、どこでも孤独である。コウモリ以外からは、皆ハブられる存在であるし、コウモリの仲間でも行動を共にしていないように思われる。
そんなコウモリはいつも孤独であった。