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タマゴが先か……

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 しかも、そのダイトーリョーが、今度は日本で演説をぶちかました時、こともあろうに、政治家たちは、立ち上がって、スタンディングオベージョンである。
 本来であれば、金もないくせに、大国と戦争を始めるという暴挙に出たのは、自分たちなんだから、何も日本が協力してやる必要はないはずである。
 しかも、アメリカ議会の前で、
「真珠湾を忘れるな」
 と言った後にである。
 みんなのあの拍手を見た時、思わず、
「ハイル・ヒトラ―」
 と言っているような錯覚を受けた人は意外と多かったのではないだろうか?
 攻めている国の大統領が、
「やつらは、ネオナチだ」
 と言っているのも分かる気がする。
 しかも、そんなことをするとどうなるかというと、
「物資が入ってこなくなる」
 ということになり、さらには、物価が上がるというわけだ。
 しかも、日本は、元々景気が悪く、給料が上がらないという状態に持ってきて、給料が上がらないまま、物価だけが上がっていくという、いわゆる、
「スタグフレーション」
 というものに入っていくことになるのだ。
 そんな時代というと、昭和恐慌を思い出すではないか。
 元々、マンハッタンでの株の大暴落から始まり、日本での凶作が追い打ちをかけ、這い上がろうとすると、列強が、
「ブロック経済」
 などというものを敷いて、
「強国である自分たちだけが生き残ればいい」
 というような世界になった。
 そうなると、日本ができることは、
「今までの占領地をすべて解放し、明治維新の状態に戻る」
 ということになって、世界から物資を分けてもらうという生き残りを目指すか。
 あるいは、
「資源の豊富な地方を占領し、対外戦争も辞さず」
 という方向で、戦争に突き進むしかなかったのだ。
「大東亜戦争は、日本が無謀な戦いを挑んだのは、慢心からだ」
 という人がいるが、決してそんなことはない。
 特に日本政府は、外交に舵を切っていた。しかし、暴走してしまった陸軍を止めることはできなくなっていたのだ。
 そもそも、政府は、軍の作戦には口を挟んではいけない。天皇を通さなければいけないわけだが、日本の政府ごときが、天皇を動かせるわけもなく、どんどん、
「事後承認」
 という形で、作戦が、正当化されてくる。
 しかも、悪いことに、戦争は連戦連勝であった。危機感もない。
 戦時中の情報統制のように、
「負けているのに、勝った勝った」
 と言っているわけでもないのだ。
 本当に勝っているのだから、たちが悪い。政府も国民もマスゴミまでもが、戦争機運になるのも当たり前だというものだ。
 そういう意味で、大東亜戦争の前夜。一番戦争を回避したいと思っていたのは、政府であり国民ではない。
 陸軍は、完全に、
「開戦やむなし」
 であり、海軍とすれば、山本五十六長官のいう、
「半年や一年は十分に暴れて見せるが、それ以降となると、保証はできない」
 ということに代表されるように、
「戦争をするなら、先手必勝。そして、連戦連勝でタイミングを見計らって、一番条件のいいと思えるところで和議を結ぶ」
 というやり方しかできないのだ。
「ニューヨークやワシントン。ロンドンに攻め込むなどできるわけもないので、どこで挙げた矛を収めるかということだけが、戦争に勝つための条件である」
 ということで始まった戦争だった。
 まさか、ルーズベルトが、
「我が国がヨーロッパの戦争に参戦するためには、何かのきっかけがいる。そのため、日本に先制攻撃をさせて、その恨みを晴らすという形に持っていけば、反戦ムードは、戦争ムードに一変するだろう」
 ということだったのだ。
 そんな時代を考えてきた中で、封建的なイメージを頭に抱いた鹿之助だったが、鹿之助が、
「どうして、光秀に対して、ここまで従者としての気持ちになれるのか?」
 ということを考えると、光秀の正体をクローズアップさせないといけなくなってくるだろう。
 そう、ここに出てくる光秀というのは、男性ではない。女性だという事実だったのである。

                 大団円

 光秀が女性だったということになれば、
「鹿之助が、なぜ封建的な発想になり、光秀に従順になるか?」
 ということが問題になってくるのであった。
 鹿之助というのは、そもそもの山中鹿之助から考えて、主君が滅ぼされても、必死になって復興を夢見るということで、正直、
「人生をそこに賭けた」
 と言ってもいいだろう。
 現代における、鹿之助も、一人の女に、
「人生を賭けた」
 と言っても過言ではない。
 そのために、景勝、景虎、帰蝶を巻き込むことになったのだ。
 いや、この中で、
「巻き込まれた」
 という人物は誰もいない。
 その場において、必ず、何か重要なところで引っかかってくるのが、この三人だった。
 勘のいい読者であれば、
「景勝が東京にいた時に、彼女がいた」
 というのを覚えているだろうか?
 その間に、地元では、景虎と帰蝶が恋仲になっていたが、実際にはすぐに別れることになった。
 それは、どちらが言い出したことなのか分からないが、
「別れはあっという間にやってきた」
 と言ってもいいだろう。
 どちらが言い出したのか、分からないというのは、
「どちらが言い出したとしても、結果には変わりはない」
 ということである。
 男が言い出そうが、女が言い出そうが別れてしまったことに変わりはないが、それには何か理由があるはずだ。それをまるで覚えていないということは、どちらから言い出しても、理由も変わらないし、
「原因も結果も、さほど変わりはない」
 という結論に至るに違いなかった。
 普通の恋愛であれば、男からの別れ話と、女からの別れ話であっても、結果が同じであった場合であっても、プロセスがかなり違っていたりして、少なくとも、お互いに別れた後で、自分の中で、検証してみる必要があるはずだ。
 そうしなければ、
「将来、同じことをしでかして、あの時、検証していればと思うに違いない」
 と感じることだろう。
 ただ、今回の場合は、どちらから別れを切り出し別れたとしても、さほど変わりがないというのは、
「最初からつき合う時というのは、どちらから告白しても変わりはなかったということではないだろうか?」
 ということであった。
 そこに、実は、根底の中に、景勝が潜んでいるということを、二人は分かっていた。わかっていながら、認めたくないというよりも、景勝の介入を一番気にしたくなかったからである。
 だから、最初に帰蝶が、
「この二人。やっぱり」
 と感じたのだ。
 景虎が一人で孤独になっている時、自分に心を開いていると思ったら、見えてこなかったところが見えてくるのだった。
 それは、いいところも悪いところもすべてである。それを思うと、帰蝶は、
「想像が当たっていないことを祈っていたのに」
 と感じるのだった。
 お互いに、コウモリであったのは、実は半分がカモフラージュであった。
 自分たちのカミングアウトを他人に知られたくないという思いから、鳥に対しては、
「自分には羽根があるから鳥だという」
作品名:タマゴが先か…… 作家名:森本晃次