タマゴが先か……
「戦争は早く終わって、生活が楽になるはずなのに、戦争はなかなか終わらない。その割に、犠牲者は増えるばかり、生活もどんどん悪くなる」
ということであれば、クーデターが起こっても無理もない状況になってくることだろう。
そうなると、戦争継続どころか、国内でのいざこざを収めなければならなくなるので、とにかく、目を戦争に向けさせて、
「鬼畜米英打つべし」
と、大きな敵に立ち向かうには、一致団結をしないといけないということで、国内を統制するうえで、警察の力が強くなるのだった。
あくまでも、戦争継続のための、戦意高揚を絶やさないようにするためということで、マスゴミには戦意高揚の記事を書かせるだけではなく、大敗した戦いも、勝ったという一種の、
「デマ」
を流さなければいけないということであった。
政府、いや、軍は、いかなることをしてでも、戦意高揚だけは死守しなければいけなかった。
そのくせ、立てる作戦は、どうなるものでもなく、最期には、
「特攻隊」
なる、脅威の、
「人間爆弾としての体当たり作戦」
が決行されるに至ったのだ。
現在の民主警察は、そんな時代のようなことはない。
あくまでも、
「法律に則った捜査を行い、被告であっても、犯人までも、人権というものが存在しているという理念にのっとっている」
といえるであろう。
少し時代が極端な時代にさかのぼったが、このゲームにおける、
「鹿之助」
という名前の人は、結構、戦時中などの話に造詣が深かった。
もちろん、ゲーム内では、どこの誰なのか分かるはずもないので、そんなことは、特に、
「景勝、景虎、帰郷」
の三人に、分かるわけのないことであった。
ただ、後ろのプライベートメッセージで話をしていた、
「光秀」
と名乗る人物とは、結構話ができていたのだ。
ここで、このゲームの体制が、
「景勝、景虎、帰蝶」
という三人と、
「鹿之助、光秀」
という二人との構図が出来上がっていた。
さらに、三人は知らなかったのだが、後の二人がつけているハンドルネームである、
「光秀」
と、
「鹿之助」
という名前は、実は、それぞれ、お互いにつけてやったものだということであった。
ということは、
「光秀と、鹿之助は、以前から知り合いだった」
ということになる。
そして、これも、後の二人は知らなかったこととして、
「光秀というのは、実は女性なのだ」
ということである。
それを知っているのは、鹿之助だけであり、
「光秀は何かを計画している」
ということが分かって、ここに参加したのだ。
それが、光秀の企みに対して、
「応援、あるいは協力するという意味での参加にあったのか?」
それとも、逆に、
「光秀が何か怪しいことをしようとしたら、戒めよう」
ということで入ったのか、光秀には分からなかった。
後者の戒めというのも、
「光秀の企みを止める、あるいは、阻止する」
というのが目的ではない。
どちらかというと、光秀が自分の行動に夢中になりすぎて、自分が危険な目に遭いかかっているところが分からずに、その時になって、
「どうすればいいのか?」
と我に返った時、自分がどこにいるか分からないということのないように、見張っているということに注視しようと考えているのだろうか?
そのことを知っている人は誰もいなかったのだ。
正直、鹿之助は、光秀のことを、女として好きだという自負はある。しかし、だからと言って、その気持ちを、
「すべてにおいて優先させよう」
という思いはないようだった。
鹿之助にとって、彼女というよりも、妹と言った方がいいかも知れないのは、こちらも、向こうの三人と同じような立場で、幼馴染だったのだ。
「だから、相手の三人が実は知り合いで、しかも幼馴染ではないか?」
ということを、鹿之助は、何となく悟っていたのだった。
鹿之助は、景虎と景勝が、
「卑怯なコウモリのようなものだ」
ということを知っていた。
どうしてそれを知っていたのかというと、光秀に聞いたからだった。
光秀という名前を付けるように言ったのは、鹿之助だった。必秀がどのような目にあったのかということを光秀から聞いて分かっていた。
「完全に、プライドをズタズタにされて、人間不信に陥り、さらに、それがトラウマとなって、鹿之助には、光秀の中に入って慰めることができなくなってしまっていたのだった」
景虎と景勝が、それぞれに、
「卑怯なコウモリ」
だということになれば、その被害者は、光秀だけではないだろう。
光秀は、同じ目に遭った人が、二人と関係の深い人間にあると悟ったのだ。
しかも、その相手は女性で、二人は、その女性を巡って、お互いに攻撃したり逃げてみたりしたのではないか?
それは、
「卑怯なコウモリ」
と同じ行動であり、
「自分が、鳥に向かって、鳥といい、獣に向かっては獣だといって、逃げ回っている」
という性質である。
つまりは、
「逃げ回る」
という行動がなければ、
「卑怯なコウモリ」
という考え方は成り立たないのだ。
最初に、二人のことを、
「卑怯なコウモリだ」
と言い出したのは、光秀だった。
光秀は大学で、景勝と同じところに通っていた。その光秀の幼馴染が鹿之助だったのだ。
鹿之助は、そのハンドルネームを、山中鹿之助からつけたこともあって、
「主君には、徹底的に味方に徹する」
という考え方であった。
つまり、光秀のことを主君だと思っていて、光秀の方も、家臣だと思っている。
「今の時代に、何をそんな封建的な」
と言われるだろうが、明らかに二人の間には、主従のような関係がある。
しかし、封建的と言われるかも知れないが、主従関係の方が、
「その結びつきの強さ、そして、人間としての、生きがいのようなもの」
があるのだとすれば、それはそれで、いいことではないだろうか。
今の世の中、平和ボケというのか、政治家や国を治める連中が、自分たちの私利私欲に走って、国民をないがしろにして、国民の税金を、まるで自分のものでもあるかのように、無駄に使っているのが散見される。
今の時代のソーリだって、そうではないか?
令和4年の9月の頃の、ソーリというと、最初は、
「政権与党の間に隠れている汚職を暴いて、明らかにさせる」
といって、総裁選に通ったくせに、ソーリになったとたん、その汚職のドンに対して頭が上がらなくなってしまった。
外国で戦争が起こると、本来であれば、日本のように、憲法で、
「戦争放棄」
を謳い、さらに、専守防衛しかできない状態で、戦争を始めた片方の国の肩を持つなどということはあってはならないのだ。
すぐに中立を表明し、なりゆきを見守るしかないはずなのに、こともあろうに、攻め込まれた国に援助し、さらに、その国が援助を言ってくれば、ホイホイで金をやる。
アメリカで演説した時には、アメリカ国民に対して、
「真珠湾を忘れるな」
と、攻められた国の大統領はほざいたのだ。
完全に日本を無視した言い分ではないか。7