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タマゴが先か……

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 何度となく、使いを出し、
「敵対している浅井浅倉軍に味方をしないでほしい」
 と言いに行っている。
 その時に、相手が従わなければ、
「この寺を攻撃し、皆殺しにすることになるが」
 と警告をしたにも関わらず、
「そんなバチあたりなことを、できるものか」
 と、タカをくくっていたに違いない。
 だが、それでも、寺は従わない。
 だから、比叡山に火をつけて。皆殺しにしてしまったのだ。
 しかし、これを、
「残虐な性格の信長だからやった」
 と思っている人がいれば、それは間違いではないかと思うのだ。
 街や相手の城を攻略した時、相手を皆殺しにするなどという残虐と思えることを平気でできたのが、戦国時代なのではないだろうか。
 この時代は、
「やらなければやられてしまう」
 という、
「下克上」
 の時代であり、足軽などが、戦勝と称して、街中で物資を勝手に、しかも、強引に調達し、その家の家族を皆殺しにしたり、家に火をつけたりなどということも平気で行われていた時代だったのだ。
 だから、何も
「信長だけが、残酷なわけではないのだ」
 と言えるだろう。
 光秀に対しての所業であったり、比叡山の焼き討ち、相手を皆殺しにしたなどという逸話が残っているということで、いかにも残虐性があるように見られるが、それも、
「出る杭は打たれる」
 の発想で、信長のように、楽市楽座の考え方や、城下町の整備など、やり方が他と明らかに違うことで成功した人間は、やっかみも込めて、どうしても、ひどく言われるというのは仕方のないことなのかも知れない。
 光秀と信長の関係もさることながら、山中鹿之助という人物とも、言われている性格は、まったく違ったものではないかと思うのだった。
 そんな、鹿之助は、元々、信長から、援軍がもらえることになっていた。
 援軍としての羽柴秀吉が、月山富田城に向かっていたちょうど、その時、三木城の荒木村重が謀反を起こしたということで、そちらを優先するようにと信長が言ってきたことで、援軍を諦め、結果的に、尼子側を見捨てることになったのだった。
「戦国時代なのだから、これくらいは当たり前のことだ」
 といえばそれまでだが、二人の間に、そういう因縁もあったのだ。
 だが、そもそも、毛利と敵対しているという点では尼子氏と利害は一致していたはずだったのだ。
 そんな、山中鹿之助幸盛であるが、彼にあやかって、
「鹿之助」
 とつけた彼の真意はどこにあるというのだろう。
 正直、彼はこのゲームの中で、光秀と同じく、
「後からの参加者」
 というイメージで、この中でいけば、
「孤独という意味での最有力者」
 ということになる。
 ただ、孤独と孤高とは違う。孤独でも、寂しいという意識しか湧いてこない人もいれば、
「孤独の中にこそ、気高さがにじみ出ているという人もいるだろう。
 それこそが、
「孤高」
 という言葉で表現され、
「孤独にこそ、美というものが存在する」
 と言えるのではないだろうか?
 世の中には、
「道徳や秩序を度返しにした形で、ただ、美というものを最大の魅力とするとこで、その美をひたすら追求する」
 という考え方がある。
 それを、
「耽美主義」
 というのだが、
 この耽美主義というのは、芸術関係では、広く言われている。
 文学、絵画、彫刻に限らず、音楽の世界にまで、美というものを追求する考え方が浸透しているのであった。
 そんな、耽美主義で、前に読んだ戦前の探偵小説で、
「殺害方法に、美を追求する」
 という、一種の、
「プライドの高い殺人鬼」
 の話を見たことがあった。
 その男は、死体を隠すことをせず、
「いかに美しく、自分の犯罪を世間に知らしめるかということを目的にしている、一種の猟奇犯だ」
 ということで、
「犯人は精神異常者」
 ということで、犯人を割り出すことで、捜査本部の意見は一致した。
 最初は、いくら探しても見つからない。犯人は、被害者を表に晒すようなやつなので、犯人を特定することは、そんなには難しくはないだろうと言われていたが、実際に探してみると、該当者はいなかった。
 今のように、資料をデータベースに入れて、コンピュータがプロファイルに当てはめて、犯人を割り出すというようなことは決してできるものではなかったのだ。
 そのうちに犯人は、味をしめたのか、どんどん犯行を重ねていく。
 一度に行う、大量虐殺も、芸術作品のように飾ることで、あくまでも、
「美を追求している」
 ということを、さらに曝け出していた。
 それでも警察は、犯人の尻尾さえも見えていないのだ。完全に、警察は舐められていた。
「本当に精神異常者なのだろうか?」
 という話になってきて、
「それはそうだろう」
 と、最初の意見にあくまでも固執する人がほとんどだったが、忽然と見えなくなった犯人像によって、そもそもの考えが間違っていたのではないかと思うようになると、
「犯人の目的っていったい何なのだろう?」
 というところまで後戻りすることになった。
 それでも、一人の刑事は、
「耽美主義」
 に固執する。
「そんなに意地を張らなくても」
 とまわりは窘めるが、それはあくまでも、その刑事が冷静さを失っているという発想から来ているのだった。
「別に意地を張っているわけではないんですよ。正直、私はこの犯人を許せないくらいに憎んでいて、早く逮捕したいとも思っています。しかし、その反面、刑事としては失格なんでしょうが、なぜ彼がこんな犯行をずっと繰り返しているのかということに大いに興味に思えたんです」
 という。
「それは分からなくもないが、まずは犯人を特定し、逮捕することではないか? このまま放っておくと何をするか分からないし。何よりも、警察が何もできないとなると、他に犯罪を企んでいるやつらを、挑発していることになるのではないか?」
 というのだった。

                 メンバーの構図

「耽美主義という犯罪は、実際に起こったとしても、それがすべて猟奇犯罪だとは言えないのではないか? あくまでも、猟奇的犯罪を演出しておいて、犯行をくらませるという考え方は、今も昔もあるからな」
 ともう一人の刑事がいうと、
「そうなんですが、それは、殺人の動機をカモフラージュするということよりも、動機が曖昧で、あまりにもたくさんの人が該当することで、犯行を煙に巻くということになるのではないだろうか?」
 という。
 本当であれば、
「事件を未然に防ぐというのが、当たり前のことである」
 が、実際に未然に防ごうとしてできたためしはない。
 警察というところは、
「今も昔も、何かが起きないと行動に移らない」
 ということだ。
 誰かが行方不明になっても、
「犯罪性がない」
 ということであれば、こちらがいくら、
「自殺するかも知れない」
 と言っても、捜索願を受理まではしても、動いてくれることはまずないのだ。
「自殺をするかも知れない」
 と言っても、そもそも、自殺をするだけの理由を話さないといけないのだろうが、中にはいくら警察と言えども、言えないことだってあるのだろう。
 それを杓子定規に、
「今は何も起こっていないから」
作品名:タマゴが先か…… 作家名:森本晃次