タマゴが先か……
「人に訪れたものが、自分にはない」
ということがどういうことなのかと考えると、そこに、
「心の歪」
のようなものが芽生えてくるということを感じていたのだった。
景勝は、やっときた思春期にホッとはしたが、その時になってやっと、
「俺にも、景虎のように、人と同じでは嫌だという意識があるのではないだろうか?」
と感じたのだ。
タイミング的におかしいような気がするが、少し意味は違うが、
「反面教師なる言葉だってあるではないか?」
と思ったことで、自分の中で納得していた景勝だった。
だが、景勝は、ハンドルネームを景勝にしたくらいなので、性格は言われている、上杉景勝に似ているのかも知れない。
逸話では、
「彼は生涯、ほとんど笑うことはなかった」
と言われているが、まさにその通りだったのかも知れない。
上杉景勝には、直江兼続という腹心がいたので、何とか大名としてやっていけ、秀吉なき後の、
「五大老」
にも任命されたわけだ。
この五大老というと、他のメンバーとしては、前田利家、徳川家康、毛利輝元、宇喜田秀家という、そうそうたるメンバーに名を連ねたことになる、
時代背景も、目的も違うが、合議制という意味では、
「鎌倉幕府における、13人の御家人」
と同じだと言えるのではないだろうか?
鎌倉幕府の場合は、
「まだ若い経験不足の将軍が、勝手なことをしないように」
ということが表向きで、本来は、
「将軍を使って、一つの御家人が必要以上に権力を握らないようにするため」
というのが、本音であった。
この五大老も、
「秀吉亡き後、一人の大名に権力が集中しないように」
という意味で、その一人というのが、徳川家康のことであることは、最初から分かっていたことだった。
その抑えが、前田利家であり、利家が死んでしまったことで、家康を抑えるのに、石田三成が立ち上がるのだが、その三成の、
「周知の仲」
というのが、上杉家家老の、直江兼続だった。
だから、関ヶ原の前に、会津で挑発し、家康が上方を離れたところで、行動に移ったのが、
「関ヶ原の合戦だ」
というわけである。
上杉景勝は、叔父にあたる上杉謙信を尊敬していたのだろう。
「義の武将」
と言われた謙信よりも、さらに、極端なくらいの、
「義の武将」
だったのだ。
だからこそ、自分も、
「上杉景勝のようになりたい」
と思っていたのだろうが、その中で一つ気にしていたのが、
「自分の周りには、直江兼続がいない」
ということであった。
彼にも、上杉景勝が、大大名になれたのは、
「直江兼続がいたからだ」
ということは分かっている。
謙信の土壌を受け継いだのだから、当然、その時点で大きな力を持ったのは当たり前だが、逆にそれだけ力が大きいと、
「器の大きな人間でないと、その屋台骨は支えきれない」
ということだ。
そういう意味で、
「初代が偉大過ぎると、二代目は、苦労をするか、影が薄くなるかのどちらかではないだろうか?」
と言われるが、まさにその通りである。
「厩戸王しかり、平清盛しかり、源頼朝しかり」
である。
その後続いていたとしても、さすがに初代には、永遠に敵わないという世襲も結構ある。その代表例が、ここでの渦中の人で、徳川幕府を開いた、徳川家康その人に相違ないといえるだろう。
確かに、二代目秀忠、三代目家光と、それぞれ父親に嫌悪を感じながらも、何とか幕府の体制を盤石にしてはいたが、
「やはり大御所にはかなわない」
ということになるだろう。
特に、改易に改易を重ねて、将軍を恨んでいる人が増えたり、何よりも、改易をしすぎたために、その大名に使えていた配下のものは、皆職を失い浪人が増えてしまったのだから、それも仕方がない。
社会問題となり、後年の代の将軍に、その責務を負わせることになるのだから、下手をすれば、
「やりっぱなし」
と言われても仕方のないことであろう。
だが、まだこの時代は、秀吉の時代。秀吉は、検地を行ったり、刀狩ということで、武士以外のところを整備したが、そういう意味では、改易などは行っていない。そこまでの権力がなかったということなのか、やはり、秀吉は、基本的に武士に対して、むごいことができない性格だったのかも知れない。
やはり、農民出身というところが頭の中にあったのだろうか?
それよりも、持ち前の、
「人心掌握術」
を用いて、
「大名を駒のように動かす」
ということに長けていたので、それを最大限に生かしたのだろう。
ただ、それは、
「秀吉だからできたこと」
であり、
「果たして家康にできただろうか?」
と言われると、疑問の残るところである。
そんな時代に景勝はある意味、
「秀吉にとっては、扱いやすいタイプだったのかも知れない」
と考えられる。
それだけ、
「見る人が見れば、一目瞭然だ」
ということであろう。
現代の景勝に対しては、それが分かっているのが、景虎であり、帰蝶なのだろう。
二人は、景勝のことを、
「分かりやすい」
と思っているが、実は感じていることは微妙に違っていた。
二人は分かりやすくはあるのだろうが、絶対的な相違ということではなく、それぞれに、
「感じている以上に、距離があるような気がする」
と、それぞれで感じていたことだろう。
そんな三人三様な関係が、高校時代の景勝の、
「遅すぎた思春期」
が終わると、三人は、そこから、ついたり離れたりをしながら、
「相変わらず」
と言えるような関係を続けてきた。
かといって、まったく離れたというわけではなく、自分の事情が忙しくなって、なかなか会ったり話をすることがなかったという、
「若干な疎遠な時期があった」
ということであった、
ただ、その時の中で一番、ギクシャクした時期があったのは、大学に進学した頃のことだった。
3人はまったく別の大学に進学した。
そして、景勝だけが、東京の大学に進学したので、3人は、それなりに、距離を置くようになったのだ。
「景勝がいない間に、二人が接近するというのも、ルール違反な気がする」
というのは、景虎も、帰蝶も同じ意見であった。
相手が景勝でなければ、そこまで神経質にならなかったかも知れないが、律義で、三人の中で一番、
「義」
というものを重んじる性格である景勝だから考えることであった。
そんな3人の関係性であったが、
「何だ、気を遣う必要なんかなかったじゃないか?」
と二人に思わせる事実が判明したのだ。
それは、景勝からの告白であり、二人には、何かカミングアウトのようにさえ思えたくらいだった。
というのも、景勝がいうのは、
「俺、東京で彼女ができたんだ」
というではないか。
もちろん、帰蝶も景虎も、脱力感は否めなかったが、考えてみれば、
「気を遣うことなんか何もないんだ」
と安堵の気持ちにさせられるというものだ。
「そうか、それはよかったな」
としか、他に言いようがないではないか。
ただ一つ、彼に気を遣う必要はなくなったが、今度はどのタイミングで声を掛ければいいのかということが分かっていなかっただけに。