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双子

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「歴史というものを知っているのと知らないのでは、比較対象を持つことができない」
 とは言えるだろう。
 答えがどこにあるか分からないが、見えている範囲で、一番正解に近づけるということはできるだろう。
「そもそも、答えと正解というものは、同一のものなのだろうか?」
 正解というのは、正しい答えということであり、答えというものよりも、もっと、厳密なものだ。
 そういう意味で考えると、あながち、
「歴史が答えを出してくれる」
 というのは間違いではない。
「歴史が正解を出してくれる」
 ということは難しいかも知れないが、答えであれば、たとえそれが間違いであっても、言葉としては、的を得ているのだろう。
 そう考えると、
「世の中、何が起こるか分からない」
 といって、起こってしまったことは、何かの、
「答え」
 なのかも知れない。
 それを思うと、
「歴史上の答えと、自分が出すべき答えが決して同じではない。自分が出すべき答えは、なるべく正解に近づけなければいけない」
 と言えるだろう。
「何が正解か分からないのに?」
 と言われるかも知れないが、
「歴史を勉強していれば、少なくとも間違えた答えを見つけることはない」
 と言えるだろう。
 そうなると、限りなく正解に近くなるだろう。
 それでも、
「百里の道は九十九里を半ばとす」
 という言葉にあるように、
「それだけ距離とは曖昧なものだ」
 と言えるのではないだろうか?
 今まで言われてきた、
「世の中の正解」
 つまり、
「モラルや常識」
 というのも、壊れるものである。
 神話だった。
「銀行はつぶれない」
 と言われていたものも、バブルが弾けたことで、一気に統廃合か、破綻するしかなかったのだ。
「運動の最中、水分を摂ってはいけない」
 と言われていた時代があった。
 理由は、
「ばてるから」
 というものであったが、今の時代では、
「熱中症対策で、水分はどんどん取らないといけない。逆に水分を摂ってきついくらいの練習であれば、練習を控える方がいい」
 ということだ。
「無理して、熱中症に罹ってしまうと。それこそ、本末転倒というものだ」
 といっていいだろう。
 そんな神話だったり、昔から信じられていたことが一気に潰れていく。きっかけになることがあるのであれば、
「きっと、皆同じ時代の一つのことを、別角度から見ることで、感じられることなのかも知れないな」
 ということなのだろう。
「神話というものが、崩れる時、世の中が、間違った方向に行こうとしていることなのかも知れない」
 と思えた。
 決して間違った方向にいってないのであれば、人間に、変な意識を植え付けることはないだろう。
 それを、
「警鐘」
 という言葉で言い表すと、分かってくることも多いのかも知れない。
 世の中において、
「本当に、神様や仏様がいるのだとすれば、なぜこんなに人間に試練を与えなければいけないのか?」
 と思える。
「天国、地獄」
 などと言って、
「十万億土」
 あるいは、
「地獄絵図」
 などという世界が創造されるが、
「天国と地獄の間が、今のこの世なのではないだろうか?」
 と考えると、天国も地獄も、死なないと行くことはできない。
 しかし、人間には、漏れなくその時期は訪れる。
 ということは、
「死というものは、天国か地獄のどちらかに行くための、儀式のようなものだ」
 と言えるのではないだろうか?
 しかも、
「生まれてくることは、自分で選ぶことはできないが、死ぬことだって、自分で選んではいけない」
 という考えが、
「自殺は許されない」
 という、いろいろと宗教がある中で、ほとんどどこも、この戒律は含まれているのだった。
「人を殺めてはいけない」
 これは当たり前のことであり、今の世の中でも、
「殺人というものは、許されることではない」
 として、最高刑に値するものだ。
「自殺というのも。自分で自分を殺すという意味で、宗教では許されないのだ」
 法律でも、裁くべきなのだろうが、死んでしまった者に、さらなる罪を与えても仕方がない」
 ということで罪にはならない。
「ひょっとすると、これを罪にすると、自殺への抑止になるのではないだろうか?」
 と言えるかも知れない。
 そんなことを考えると、また頭がこんがらがってくる。
 世の中で、歴史というものが、出してくれる答えというものを、甘んじて受け入れられない場合のことを、
「理不尽だ」
 というのであろう。
 この世の中に、どれだけ、理不尽と呼ばれるものが多いことなのであろうか。
 つまりは、
「生まれる時も、どこの誰から、いつ生まれるかが分からない。そして、死ぬ時も、死というものを自分で選んではいけない」
 というのである。
 しかし、生まれる時、選べないのであれば、
「死ぬ時くらい、自由でいいのではないか?」
 と思うのは、いけないことなのだろうか?
 確かに、死ぬ時も選べないというのは、どういうことなのだろう? まわりの人が悲しむくらいで、もし、
「助からない」
 というのであれば、
「安楽死」
「尊厳死」
 という形で、楽にしてあげる方がいいのではないだろうか?
 考えられることすれば、
「安楽死を認めると、安楽死というものを理由に、死んでもらいたい人を殺すという殺人事件が、隠れてしまう」
 ということになるからではないか?
 と考えるのだった、
 つまりは、
「遺産相続の関係で、今すぐにでも、お金が必要な人がいるとして、一日でも早くお金をもらわなければ、借金取りに追われて、どんな目に遭うか分からない」
 という人が、故意に安楽死を狙うということにならないかということである。
 法律や犯罪にかかわることであれば、倫理的なこともあり、
「安楽死は認められない」
 ということになるのだろう。
 しかし、安楽死を認めないということは、残った家族が、
「地獄を見る」
 ということになるわけだ。
「目が覚める可能性が限りなくゼロに近い」
 と言われている人の生命維持のために家族は、その治療費を払い続けなければいけない。しかも、付き添いもしなければいけないということで、仕事を辞めなければいけない人もいるだろう。
 自分が生をしていくだけで大変なのに、家族がどうして、
「生き返る可能性の低い、植物人間を見なければいけないのか?」
 ということになるのだ。
 精神的にもかなりきついだろう。波の神経であれば、家族の方が参ってしまうことになるはずだ。
 世界では、安楽死を認めているところもある。日本でも、厳密にはすべてがダメといっているわけではないが、基本的にはダメである。
 特に医者が安楽死に加担すれば、医者の世界から追放されたり、世間から誹謗中傷を浴びることになるだろうから、まず、医者は安楽死を認めることはないだろう。
 ただ、家族を一番近くで見ているのは医者なので、衝動的に同情してしまったとしても、責めることはできないだろう。
「安楽死を認めていいのかどうか?」
 これは、これからも論争のテーマになるだろうが、
「永遠に答えは出ない」
 という気もして仕方がない。
作品名:双子 作家名:森本晃次