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双子

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 というと、
「それはお前たちが、それぞれの裏が自分と同じ性格だということを、無意識に理解しているからさ。双子が引きあうのであれば、それくらいの感情は当たり前にあってしかるべきだと思うんだよな」
 というのだった。
 その話を聞いて、双子がどういう感情なのか、少し考えるようになった。
「俺にないモノを持っている? ということは、よく見ていると、反面教師にもなると、本当の手本にも見える。そこを見極める必要があるんじゃないか?」
 と考えるようになったのだ。
「兄貴なら。この場面、どうやって乗り切るだろうか?」
 と考えた。
 友達がいうように、
「二人合わせて、一人前」
 ということであるのであれば、兄貴の考え方を踏襲するというのも一つの手である。
 こうなってしまったのであれば、そう簡単に逃れることはできないだろう。
 そう思うと、どうやってでも、助かる方法を自力で考えなければいけない。もうここまでくれば夢というわけではないからだ。
 忠次のいいところは、すぐにその状況を把握できて、順応しようとするところである。だが、そのおかげで損をすることもよくある。これに関しては、他人であれば、ここまで直に自分の運命に影響してくるということはないだろう。
 もし、影響してくるとするならば、他の人であれば、もっと時間のかかることであるので、そういう意味で、忠次は、
「損を補ってあまりある順応性があるのではないか?」
 と思うのだった。
 この性格は順応性だけに限ったことではない。その時に考えるのは、
「兄貴なら、こんな時どう感じるだろう?」
 と感じることから始まっているように思えてならないのだった。
 忠次にとって、この、
「絶体絶命」
 ともいえる危機を逃れるには、
「まず、自分が置かれているこの状況」
 を、
「まるで他人事のようだ」
 と思う必要がある。
 他人事だと思うと、不思議といつもいいアイデアが浮かんでくるのだ。そして、
「俺が他人事だと思うのが得意な気がするということは、いいことのように思えてならない」
 と感じていた。
 他人事と思うと、楽天的に考えることが普通であれば、できるのだろうが、冷静になることはできても、決して楽天的になれない。
 他人事だと思うことでさえ無理なのだから、それ以外の時は無理に違いない。
 だから、自分では他人事だと思っていても、それは、他人がいう、
「他人事」
 という考えとは違っているのだろう。
 他人がいう、
「他人事」
 というのは、多分に、楽天的な部分も含まれているのだろうが、忠次のいう他人事には、決して楽天的な考え方は含まれていないということである。
 つまり、忠次にとって、
「他人事と、楽天的だということは平行線であって、交わることすら許されない関係であり、近くに見えないだけに、永遠に違うものだと思い続けるに違いない」
 と感じるのであった。
 楽天的に思えないと、この窮状を逃れることはできないだろう。
 しかし、それは難しい、万が一楽天的になれたとしても、短い間だけのことで、脱出までに、必ず、現実に引き戻される。
 その時は、その反動がどれほどのものなのか分からずずに、恐ろしいと思うに違いないのだ。
 それを思うと。
「楽天的になりたい」
 と感じる方が恐ろしいというものではないだろうか?
 忠次は。
「ここから逃れるにはどうしたらいいか?」
 ということを考えた。
 それには、頭の中にある知識や、残っている記憶から、類似のものを探し出して、一つ一つ当てはめていくしかないと思うのだった。
 つまり、
「テレビで見たり、本を読んだりして得た知識」
 というものであった。
 サスペンスや刑事ドラマなどで、誘拐や、主人公の刑事が拉致監禁された時など、どのように脱出した場面があったかということを、頭の中から引き出そうとした。
 本当は子供ができるような発想は、やめておきたかったのだが、思い出すのはそっちばかりだった。
「きっと、テレビを見ながら無意識に、自分と同じくらいの少年だからという思いで見ていたからに違いない」
 と感じる。
 それは、嫉妬というよりも、自尊心の方が当たっている心理状態なのではないだろうか?
「あの子にできて、俺にできないはずはない」
 という、普段はあまり感じたことのない、自惚れのようなものが、その時にはあった。
 いや、本当は他の時にも感じているのかも知れないが、それだけではないのかも知れない。
「自分にだけできる、あるいはできないという発想は、すべては自尊心の有無から始まっている」
 と考える。
「自尊心というのは、多い少ないの差はあるのだろうが、誰にでも備わっている」
 という人もいるし、忠次自身もずっとそう思っていた。
 しかし、兄の忠直を見ていると、表から見た分には、その自尊心の存在を感じさせることはない。
 だから、人当たりがよく見えて、誰もが安心して兄貴に近づけるということであれば、兄がいつも誰かと一緒にいるということも理解できるというものだ。
 そして、
「他人事に考える」
 ということを思い浮かべた時、頭に浮かんできたのが、兄の顔だった。
 しかも、その顔は、なぜか笑っている。実際に一緒にいる時、兄貴が笑っているところなど、あまり見たことがないにも関わらずである。
 その顔には、どこか、
「いやらしさ」
 というものがあり、そのいやらしさは、人間としての、裏の部分を思わせる、
「陰湿な部分」
 が感じられたのであった。
「他人事のように思う」
 というのは、同じ人間臭さであっても、
「どこか、逃げている感覚」
 というものが付きまとい、そう簡単に逃げられるものではないはずだ。
 だから、陰湿さというものがあったとしても、その感情は、膨れ上がりながら、空気が膨張していくというだけの、
「重さは決して変わらない」
 ということから、感覚として、
「むしろ軽くなっていっている」
 というものが残ると思っていた。
 しかし、実際には、陰湿な部分があることで、蒸し暑さが身体のダルさを伴って、軽いと思っているものを、感覚として、
「重たさがこみあげてくるような気がする」
 ということに変わっていっているのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「兄は、本当に楽天的なのだろうか?」
 と、日ごろの態度だけではなく、双子であるがゆえに分かるであろう兄の性格を鑑みると、そこには別の、何か、陰湿なものが含まれているような気がした。
 それは、他人であれば、不思議に思わないが、兄に対しては、おなしく思うのは、やはり双子というキーワードが存在しているからなのかも知れない。
 では、一般的な人の考える、
「陰湿性」
 というのはどういうものであろうか?
 ここは、
「兄だから」
 という考えを捨てて、それこそ、兄を
「他人事」
 として見る目を養わなければならないのではないだろうか?
 と感じるのだった。
 さて、
「実際にここから逃れるには、どうすればいいか?」
 ということを考え始めてどれくらいの時間が経っただろうか?
作品名:双子 作家名:森本晃次