パンデミック禍での犯罪
校長も、その用務員のことをよく知っていた。いつも気が回る、気立てのいい初老の男性だった。
初老と言っても、60歳は過ぎていただろう。あくまでも履歴書を見たわけではなく勝手に想像しているだけなのだった。
その老人も、本当は辞めなくてもよかったのかも知れない。
というのも、今回の、
「世界的なパンデミック」
によって、学校が明らかに運営が難しくなるということで、理事長からの打診として、
「用務員はいらないだろう」
ということからだった。
体のいい、
「リストラ」
だったのだ。
本当は、ずっと前からこの学校にいて、校長先生よりも、教頭先生よりも長くいるのだった。
もっとも、校長ともなると、定期的にいろいろな学校に行くことも仕方のないことであるが、ある意味それだけ、
「いろいろなところを知っている」
ともいえるであろう。
そんな校長が、今まで彷徨ってきた学校の中でも、この学校の用務員さんは、実に献身的であることは、すぐに分かった。
昔からの学校ということもあり、宿直室で暮らしているような人だったので、ここをリストラということになれば、
「住むところも奪う形になってしまう」
ということであった。
ただ、この用務員さん、
「そういうことなら仕方ないですね」
と、歯ぎしりが聞こえてきそうだったが、表面上は、何も言わずにしたがってくれた。
「この先が決まるまで、とりあえずが、3カ月は理事長に猶予は貰っているので、その間にできれば、住むところと、職を決めてほしい」
と告げた。
校長の方も、できる限り、他の学校に当たってみたのだったが、
「ここでリストラなんだから、他の学校だって、リストラしようと思っているところはあっても、雇ってくれるようなところなんてあるはずないよな」
としか思えなかった、
だが、この問題は、用務員だけに限ったことではなく、教師や、校長の問題でもあった。
「いつ転勤を言われるか分からない」
というウワサも流れたくらいで、しばらくすると、デマだということが分かったが、
「昔から、有事の際や、災害が起こったりすると、大きなデマが飛び交って、治安が乱れる」
と言われているので、それが怖かった。
その最たる例が、
「関東大震災」
であり、新聞などが発行できない状況なので、被災者には、まったく情報がいきわたらない。
そんな時、
「朝鮮人がこれを機に攻めてくる」
などというデマが巻き起こり、朝鮮人の虐殺が行われたというが、無理もないことだ。
きっと、在日朝鮮人全員が、
「諜報部隊の人間」
という風に写ったのだろう。
戦争などにおいて、虐殺事件というのは、つきものであり、
「尼港事件」
「通州事件」
「通貨事件」
などは、日本人に行われた海外での大量虐殺事件としての、悲惨なものの代表であろう。
そこまでひどいものではないが、この頃、令和2年というのは、
「有事と同じ」
といってもよかっただろう。
大日本帝国時代であれば、
「戒厳令」
というものがありえたのだ。
「戦争、災害などの有事において、治安を維持するため、軍や政府が、その都市に戒厳令というものを敷き、市民に与えられている自由や権利を、ある程度まで制限できる」
というものであった。
今であれば、憲法9条がある以上、
「有事は日本にはありえない」
という考え方と、さらに、
「基本的人権の尊重」
という観点から、
「国家が、国民の自由を侵害してはいけない」
ということになり、戒厳令というものがありえないものとなっているのであった。
大日本帝国時代に、実際に、戒厳令は、3回発令された。
その三回は、大日本帝国が存在した期間の、元号、それぞれに一回ずつという結果ではあったが、最初にあったのは、
「日比谷公会堂焼き討ち事件」
であった、
日露戦争終結の際、ポーツマス条約にて、戦争賠償金を得られなかったことに怒りを覚えた民衆が、小村寿太郎外務大臣の家や、日比谷公会堂を焼き討ちにするという暴動を起こした。その暴動を抑えるのに、軍が出動し、強制的に抑えるしかなかったのだろう。
これが明治に起こった戒厳令であるが、次は大正時代である。
大正に起こった、事件、災害で、未曽有の大災害が、大正12年の9月1日に起こった。これが、いわゆる、
「関東大震災」
である。
先述のように、
「朝鮮人虐殺」
などという事件もあり、そのせいもあってか、治安はすこぶる悪かった。
何しろ、情報が錯そうし、どうしようもない混乱だったからだ。
そうなってしまうと、軍が出て、統制するしかないだろう。それが、大正時代に起こった、
「二度目の戒厳令」
であった。
一回目が、暴動、二回目が、地震という災害。では三回目はということになるのだが、これが、昭和に入ってからの、
「クーデター」
ということになるだろう。
もちろん、戒厳令というのは、大日本帝国時代にしか存在しないので、昭和20年までに起こったことになる、では、それまでに起こった、
「一番大きなクーデター」
と言えば何かというと、そう、昭和9年の、2月26日に起こった、
「二・二六事件」
ということになるのだ。
いろいろ意見はあるようだが、このクーデターというのは、本人たちは、
「天皇を取り巻く、甘い汁を吸っている特権階級の連中を、奸族として天誅を加える」
という精神で、
「尊王倒奸」
あるいは、
「昭和維新」
の旗印の元、立ち上がった青年将校たち。
というのが、一般的に言われていることであるが、実際には、そうではない。
単純な、
「陸軍内部の、派閥闘争だ」
といっていいだろう。
当時陸軍は、皇道派と呼ばれるグループと、統制派をいうグループが軍内部で激しい派閥争いを繰り返していて、暗殺事件も起こっていたりした。
最初は、皇道派の力が強く、皇道派が覇権を握ったかに見えたが、そのうちに統制派が勢力を盛り返し、皇道派は劣勢となった。
そんな時、皇道派の連中が、統制派に近い、政治家の連中を葬りさるという、クーデターを考えていた。
さらに、統制派のリーダーと目された大将を、担ぎあげ、首相を殺した後で、その大将に、総理に就任してもらい、自分たちに都合のいい政府を作ろうと画策したことだった。
それは、正直なところ、暗殺された人たちのメンツを見れば、派閥争いであることは火を見るよりも明らかだった。
それでも、彼らは、
「天皇中心の中央集権国家にして、立憲君主制を推し進める」
ということを、決起衆意書に纏めたのだった。
しかし、この企みにいち早く気づいたのが、こともあろうに、天皇だったのだ。
天皇はお怒りになり、
「こんな、残虐なやり方で、朕の重鎮たちを葬り去るなど、これ以上の暴挙があるか」
と言ったという。
陸軍側としては、青年将校に同情的な人もいたが、天皇陛下が、立腹しているのを見ると、何も言えなくなる。
決起した青年将校たちは、
「反乱軍」
というレッテルを貼られ、
「数日で鎮静化できないのであれば、自分が自ら軍を率いて、鎮圧することにする」
作品名:パンデミック禍での犯罪 作家名:森本晃次