パンデミック禍での犯罪
みたいなことを口に出していた。急に勉強ができるようになると、自分が劣等生だった頃のことを忘れるわけではないので、まわりに対しての劣等感のようなものが、形だけ残ってしまっている。それを自覚できていないから、まわりに対して、
「お前たちは俺よりも頭がいいはずではないか?」
と感じるのだ。
それが、結局自尊心を大きくすることになり、まわりに対して優越感を持つようになる。
前に持っていた劣等感も一緒に持っていることから、優越感では、相手のことを思いやるという余裕がなくなっているのだ。
だから、優越感と劣等感の大きな差を感じることで、地獄から天国に上がったかのようになり、
「俺は、神のような存在ではないだろうか?」
と感じるようになると、今度は、
「もう、俺はお前たちとは違う世界にいるんだ」
という感覚にあり、言動もそれに似合ったものに変わってきた。
それによって、まわりは、完全に自分に反感を持つようになるのは当たり前のことだったのだ。
しかし、そんなことを分かるほど、冷静にはなれなかった。
「なんで、俺は苛められるんだ?」
という思いである。
しかし、腕力で敵うわけはないと思っているから、口で勝とうとしてしまい、火に油を注ぐ結果になってしまうのだった。
それが、苛めという結果で返ってきたのだが、自分ではそのことを分かっていない。
「俺は当たり前のことを言っているのに、何で苛められなければいけないんだ?」
という意識があったのだ。
というのも、自分が劣等生の頃は、
「俺は勉強ができない、勉強が嫌いだから、成績が悪い」
と、つまりは、
「自分が悪い」
と分かっていたわけで、皆だって、
「俺よりも成績が悪いから、俺に罵倒されることになるんだ」
と考えることの何が悪いというのか?
と考えてしまうからだと思うのだった。
つまりは、
「俺は自分のことしか考えていなかったというよりも、すべてのことを、自分の尺度で測ろうとしていたから、相手のことを考えることもなく、好き勝手な言葉が口から出てくる結果になったんだな」
と感じた。
まさにその通りで、相手のことを考えずに口から言葉が勝手に出てくることが、苛めっ子にとっては嫌だったのだろう。
しかし、そのことが少しずつ分かってくるようになると、苛めっ子との間の溝が少しずつ埋まってくるような気がした。
それが、今までの自分との溝を自分の中で埋める結果になり、そうなると、相手との距離は自然と埋まってくる。
相手はそれを、
「誤解していた」
と感じてくれたのも、ありがたいことだった。
相手は、その誤解というものを、どう考えていたのか分からないが、
「誤解だった」
ということが分かることが大切だったのだ。
そのおかげで、苛められることはなくなってきて、逆に勉強ができることで、まわりから一目置かれるようになった。
「そうか、自分で虚勢を張ろうとするから、皆の怒りを買うんだ」
という、当たり前のことが、やっとわかった気がしたのだ。
だが、その気持ちが、分かってくると、今度は、
「この気持ちを将来役に立てることができれば」
と考えるようになった。
それが、今までバカにしてしまった人たちに対しての、罪滅ぼしになるとも感じたからだった。
その思いが、
「教師を目指そう」
というものだった。
勉強の中で一番好きだった科目が歴史だった。だから、
「社会科の先生になりたい」
と思ったのだ。
社会科の先生になるには、歴史だけではダメで、同じ歴史でも、世界史、さらには、地理、そして、政治、経済、倫理社会などと幅ひろい教養が必要だった。
だが、幸いなことに、どの学問も嫌いなわけではなかった。
歴史を勉強していれば、おのずと、政治経済。倫社などには精通してくると、地理にも興味を持ってくるというものだ。
地理的なことを知らないと、歴史を把握できなかったり、逆に、歴史を知らないと、地理が理解できないということもあった。
「なるほど、まったく違う学問に見えるけど、社会科という一括りにできるということにも、それなりに訳があるということだな」
と、青年の頃の校長は気づき、勉強に熱心になるのだった。
おかげで、大学も、歴史を専攻する学校に入学することができ、そこで、教員を目指した。
歴史を勉強する学部は、意外と、
「教師を目指している」
という人が多かったのだ。
おかげで、皆目指すものが同じだと、切磋琢磨もできるし、一緒に勉強もできて、
「自分の欠点」
を見つけることができたりした。
それが、どれほど自分のためになるかということに気づかされた。
それまで大学受験というと、
「孤独との闘い」
であり、さらには、
「まわりは全員敵なんだ」
という意識が、勝手に備わってしまっていたりしたではないか。
それを思うと、勝手に引きこもって、いつも間にか、
「受験にも失敗するのではないか?」
と思い込んでしまったものだったが、それは、ちょうど、気持ちの落ち込みのピークだったのだろう。
しかも、その時、自分で初めて、
「俺って、躁鬱症なんだ」
と感じた時だった。
躁鬱症というと、躁状態と鬱状態が交互に襲ってくるのだが、その襲ってくるという状態が、まるで、
「負のスパイラル」
のように感じられると、自分の中にある、
「バイオリズムの線」
が近づいてくるように感じるのであった。
学校に赴任してすぐくらいに、よく、保険のセールスレディがやってきて、
「保険お願いします」
と言いながら、挨拶に、バイオリズムのグラフを持ってきていた。
「三つの線が、人間の感情や肉体などをつかさどるリズムになっているんですが、その線が一致するところでは、気を付けないと言われています」
といって見せてくれたが、その時はあまり意識はなかったが、途中から、
「ああ、意外と当たっているかも知れないな」
と見直すようになってから、バイオリズムを気にするようになったのだ。
そんな時代では考えられないような時代が今の時代で、今の苛めというと、陰惨を絵に描いたようなものであった。
それこそ、
「地獄絵図」
といってもいいかも知れない。
実際に地獄絵図というと、針の山だったり、血の池だったりを想像するが、現実の地獄絵図というのは、
「一度嵌りこむと、抜け出すことのできない」
と言われる、底なし沼を想像するのだった。
「もがけばもがくほど、抜け出すことができない」
それが、どれほどの恐怖であるか、それを感じさせられるものであった。
そのせいで、苛めを受けた子が、かなりの確率で、
「引きこもり」
となるのだった。
ただ、この引きこもりというのは、恐ろしいもので、学生だけではなく、大人まで引きこもることが多いという。
社会に出ても、適応できずに、すぐに会社を辞めてしまい、
「ニート」
というものになる。
つまりは、
「ニートと引きこもりというのは、相対した言葉ではないだろうか?」
と言われるようにもなっていた。
作品名:パンデミック禍での犯罪 作家名:森本晃次