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パンドラの殺人

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 に変わり、その日を生きるのに必死な世の中になっても、生き続けるということの精神力はどこから来ていたのだろうか?
 世の中がすべて焼け野原、今まで住んでいた世界が一変し、どうしていいか分からない中で、中には、
「どうして生き残っちゃったんだろう?」
 と思う人もいるだろう。
「いっそのこと死んでいた方が、余計なことを考えない」
 と思う人もいるだろう。
 今の世の中、果たしてどうやって生きていけばいいのか。それを見つめなおすのが、戦後復興ではないだろうか?
 考えてみれば、ノアの箱舟などもそうだが、聖書などには、
「滅びるところまでは詳しく書いてあるけど、復興するところはほとんど書かれていない」
 といってもいいだろう。
 それを考えると、
「聖書の話というのは、本当に信憑性があるのだろうか?」
 と思えてくるのではないだろうか?
「復興について書かれていないのは、実際に洪水や、世の中が壊れたことは想像して書くことができても、その復興には、想像することすらできない」
 と言えるのではないだろうか?
 それだけ、復興には、一つのことに対していろいろなやり方がある。ただ、その時の人の感情を表すことは不可能に近い。それが、復興を描くことができないということの証明になるのではないだろうか?
 戦時中と、戦争が終わり、復興状態において、自殺の実際の数とは関係ないという条件の元であるが、
「自殺したいという、いわゆる自殺志願者が多いのはどちらなのだろうか?」
 ということを考えると、どう思えるだろうか?
 たぶんであるが、
「戦後の方が、圧倒的に多い」
 と言えるのではないだろうか?
 前述の理論から考えても、それが証明できるのではないかと思える。
 しかもその考え方は、
「説明しろ」
 と言われたとしても、意外とできそうな気がする。
 しかし、それを難しいと考えるとすれば、
「その考えというか、発想が無限に近いだけの可能性を秘めているからではないか?」
 と言えるからではないだろうか?
 そのことを考えると、あくまでも、最初のきっかけになることが何であったとしても、自殺をしたいといういわゆる、
「自殺志願者」
 に対して、
「いかに、自殺をしたくなるように誘導するか?」
 ということが徹底していれば、容易なことではないだろうか?
 途中にいかなるプロセスが存在したとしても、結果として、
「死ぬ」
 ということに変わりはないのだ。
 今の状況を変えることはできないから、
「死を選ぶ」
 ということであれば、死にたいと思っている人は、今がどうのではなく、死んだ後にどうなるか? ということにしか目が行っていないわけである。
 いかに動機がどのようなものであろうとも、死にたいと感じることは、その言葉に集約されるように、
「死にたい」
 と思うことがすべてなのだ。
 もちろん、死ぬことで今の苦しみを逃れたいということが、一番の原因だということにブレがないことから言えることなのであろうが、
「死にたい」
 と考える人が多い時代ほど、ちょっとした一言であったり、その人のツボを押すというような、スイッチの入れ方をすれば、自殺者は、爆発的に増えるというものではないだろうか?
 そのために、きっかけはいろいろあるのであるから、それは戦争中であっても、戦後であっても変わりはないだろう。
 死にたいと思うきっかけに対して、どれだけ死というものに、いかに真剣に向き合えるかということであり、
「人が死にたいと思える人をいかに見つけて、その人に的確に、死に至るアドバイスがっできるかということが、死の商人と呼ばれたり、死神などという、ありがたくない称号で呼ばれることになるのかということが、自殺者を増やすか減らすかというバロメーターなのではないだろうか?」
 そういう、
「死神」
 と呼ばれるような人は、結構、死にたいと考えている人を見つけるのがうまいのだろう。
 妖怪もののマンガやドラマでは、死にたい人というのは、
「死相が現れている」
 ということが分かっているかのようだった。
 だが、本当に人の死を願っている。あるいは、自殺をさせたいと思っている一定数の人たちにとって、本当に人の死相などが見えるのだろうか?
 他人の死、しかも、まったく自分に関係のない人の死を願っている人は一定数いる気がする。
 人が死ぬことで、ライバルが減ったり、正直、食い扶持が減らずに済むということを、真剣に考えている人もいるだろう。彼らは、人類の未来を真剣に考えて、一周まわって、この結論に至ったのであろう、中途半端な気持ちでは、至ったとしても、その場に考えが留まることは不可能に思えるからだった。
「死にたい」
 と思うのは、ずっと思っていると、次第にその感情に慣れてきて、それが慢性化してくると、その思いが、次第にマンネリ化というべきか、ルーティンのようになるのではないか。
 それはまるで、
「朝がくればお腹が減るので、朝食を食べたり、昼休みが午後0時からあるので、その時間に合わせてお腹が減る」
 といった、条件反射のようなものを、定期的に感じるのではないか、ということであった。
 つまりは、
「死にたい」
 という感情は一種の病気のようなものであり、一度思うと、その思いがまるでくせのように沸き起こってくるというものだ。
 この癖というのは厄介なもので、身体に一度その味をおぼえこませると、自分を傷つけないと仕方がないというものである。
 もちろん、本当に自殺をしたくなるのであるから、ただの癖だというだけで片付けると、自殺を試みた人からすれば、
「人が真剣に悩んでいるのに」
 ということになる。
 人によって、定期的といっても、突然襲ってくるもので、それが、どのタイミングなのかは分からないと思っている人もいるだろう。
 しかし中には、
「いつも決まって、夕方に」
 という人もいるだろう。
 その場合は、最初に自殺を試みたのが、たまたま夕方だったので、
「夕方になると、自殺したくなる」
 という一種の
「パブロフの犬」
 のようになり、それこそ、条件反射だと言えるのではないだろうか?
 どちらが多いのか、医者でも、心理学者でもないのでよく分からないが、普通に考えると、
「巧者ではないか?」
 と思えるのだ。
 生きている限り、毎日やってくるその時間帯。その人にとっては、自分の中の感情のスイッチを押す、いわゆる、
「鬼門の時間」
 なのかも知れない。
 人間には、
「鬼門」
 と呼ばれるものがあり、いわゆる、
「東北にあたる方角」
 だという。
 これを時計に置き換えると、南から北を見た時に東北を指している時間というと、それは、
「二時前後」
 ということになる。
 この時刻を聞いて、ピンとくる不吉な時間がないだろうか?
 それがいわゆる。
「草木も眠る丑三つ時」
 というのではないだろうか?
 つまり、幽霊が一番出やすい時間と呼ばれている時間である。
 今のように、
「二十四時間眠らない」
 というような街であれば、ピンとこないだろうが、昔の丑三つ時というと、
「草木ですら、眠りに就いている時間帯」
 ということで、鬼門の時間帯なので、
作品名:パンドラの殺人 作家名:森本晃次