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パンドラの殺人

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 本来であれば、軍需工場をピンポイントで攻撃すればいいのだろうが、日本上空には、
「ジェット気流」
 なるものがあり、
 それによって、ピンポイントの攻撃では、ほとんど成果が得られない。
 したがって、この土地も、
「絨毯爆撃」
 と言われる、無差別爆撃で、市民が犠牲になるのは、避けられないことであった。
 そのせいで、日々の爆撃が続き、徐々に住む家も減ってきて、疎開に走る人も多いだろう。
 終戦間際では、完全に人口はほとんどいなくなり、半分ゴーストタウンのようだった。
 元々、建物は、戦前からの、
「建物疎開」
 と呼ばれるもので、歯抜け状態だった。
 建物疎開というのは、空襲を想定したもので、街が密集していると、木造家屋ばかりの日本では、爆弾が落ちてくると、誘爆を起こし、一気に街が壊滅するということで、家を歯抜け状態にしておけば、
「全体に火が燃え広がることはない」
 という考えであった。
 もちろん、通常のTNT火薬の爆弾であれば、それも、効果が絶大なのだろうが、米軍は、木造家屋を焼き払う目的で焼夷弾を作った。しかも、最新式の焼夷弾は、
「クラスター爆弾」
 の様相を呈していて、空中でいくつもの小さな爆弾となって散布し、放射状にばら撒かれるのだから、建物疎開というものはあまり効果がないといえたのだ。
 このように、当時は画期的であったとしても、相手が親権に研究し、効果を最大にならしめるという考えを持っていれば、その対応策など、簡単に見抜けるというものだった。
 都市への無差別爆撃は、そんな日本家屋を文字通り、焼き尽くし、日本の大都市を、ことごとく、廃墟にしていったのだった。
 燃えてしまうのだから、残りは、コンクリート部分の瓦礫だけになってしまうというのも当たり前のことで、そもそも、空襲への備えが間に合わなかったのか、いくら対策をしても、木造家屋という致命的な弱点を持った日本家屋は、しょせん、燃え尽きるしかなかったというのか、それこそが、日本の運命だったのだ。
 それでも、政府は、
「一億総火の玉」
 などと言って、本土玉砕を考えていた。
「国破れて、山河なし:
 というところまで、完膚なきまでに国土は粉砕されていたのかも知れない。
 そんな風にジリジリやられるのも、結構たまらないものだ。
 まるで、どんどん端に追い詰められていくようで、
「どうせ、生き残ることなんかできないんだ」
 と思うようになり、結果、黙って死を待つというようなそんな状態に、どうしようもなくなり、
「一思いに殺してくれればいいのに」
 と思う人も多いだろう。
 そのくせ、空襲警報がなると、真っ先に、防空壕に飛び込む。そして、空から降ってくる爆弾に当たったりしないように、自然と頭を下げるのだった。
 上から降ってくるものに対して頭を下げたところでどうなるものでもない。防空頭巾だって、あんなものかぶったとしても、守れるわけではない。
「竹やり訓練が、これほど無駄なことはない」
 とは思うのだが、避難の際、ほとんどのことがムダではないかと、どうして思わないのだろう?
 あれだけ、政府が考えて実行した、建物疎開だって、結局、アメリカが、
「日本家屋を焼き尽くす」
 ということで考えた焼夷弾にはかなわないではないか。
 日本政府が考えることといえば、せめて、
「防空壕を掘って、そこに逃げ込む」
 というくらいで、後は、まったく意味のないような、防空頭巾であったり、竹やり訓練、バケツリレーなどであろう。
 焼夷弾で使われている、
「ナパーム」
 というのは、相手を焼き尽くすまで消えないのだ。
 だから、
「水を掛けたくらいでは消えない」
 ということを、当時、どこまで分かっていたか?
 いや、分かっていたとしても、どうしようもないことであったに違いない。
 ただ、この土地に関しては、米軍にどのような狙いがあったのか分からないが、ハッキリとしていることは、
「時間が経つにつれて、人々の生きるという気持ちが次第に、消耗していっったことだろう」
 と、いうことであった。
 あれだけ、ネチネチと毎日のように、焦らすように攻撃を受ければ、次第に、
「どうでもいい」
 と思う人も増えてくることだろう。
 しかも。実際には、政府や他の国民がいうように。
「天皇猊下のために、最期まで戦う」
 と真剣に考えている人だって、たくさんいる。
 むしろ、そっちが主流なのであろう。
 時代がそんな時代であったし、戦争に対して反対したり、輪を乱すようなことがあれば、即行で特高警察がやってきて、しょっ引かれてしまう。
 下手をすれば、拷問に掛けられ、強引にでも、日本国民としての心得というものを、叩きこまれてしまうだろう。
 だが、逆にそうなればなるほど、命というものの大切さがどういうことなのか、疑問に感じられる。
 他人によって命が奪われるという環境に陥った時、
「必死になってでも、生きよう」
 という考え方と。
「しょせんは、死ぬんだから」
 という考えとで、まったく両極端な考え方が共有するという、歪な世界を形成してしまうのだろう。
 ただ、それを表に出すか出さないか。当時の人たちは、あまり表情を顔に出さない。
 そもそも、笑うなどという表情を見せれば、これもたるんでいるということで、警察にしょっぴかれることになるのだ。
「一体、この世が異常であるということを、どれだけの人が知ることになるのだろうか?」
 そんな風に考えている人もいたであろう。
 そんな時代においては、自殺を考える人がいたかどうか分からない。何しろ、その時のことを知ろうにも、証人はいないし、文章でも残されてはいない。
 そもそも、戦争中に、
「自分は死にたい」
 などということを残してしまうと、
「生きていたいにも関わらず、死ななければいけない人がたくさんいたそんな人たちに対して、どのように申し開きをすればいいのか?」
 ということが問題になるだろう。
 自滅というのは、
「相手の捕虜になる」
 ということを恥ずかしいと思い、捕虜になるくらいなら、自決することを選ぶ。
 という、当時の、
「戦陣訓」
 というものを守らなければならないということから来ている。
 あくまでも、
「戦意高揚」
 の邪魔になることが、戦争継続を困難にするということであり、国民一人一人を考えてではない。
「敵前逃亡銃殺刑」
 も同じだ。
 軍において、逃亡を許せば、収拾がつかなくなるということで、その罪は最大級に重いということでの銃殺刑。そんな時代に、自殺などという選択肢はないだろう。
 だが、戦争が、
「連合国による無条件降伏」
 ということになると、今まで、
「鬼畜米英」
 などとなじり、
「アメリカ人は、人間の生き血を吸う」
 などというとんでもないデマを真剣に信じていた人たちは、その時点で、将来にまったくの希望を失い、自害した人も多いだろう。
 政治家や軍の人も、
「戦犯になるくらいなら」
 ということで、自決していた。
 自分の犯した罪の呵責に苛まれていた人もいるだろうが、全員ではないことは確かであろう。
 世の中が、
「立憲君主制」
 から、
「民主制」
作品名:パンドラの殺人 作家名:森本晃次